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1947年に外相会議が春と秋の2回、それぞれモスクワとロンドンで行われたが、今度は[[冷戦]]が勢いを増していたこともあってドイツと[[オーストリア]]の講和条約の締結に失敗した。しかしながらプロシア[[自由国]]の解消には合意し、これによって[[オーデル・ナイセ線]]東側のプロシアが支配していた領域の併合が認識された。
 
<span style="background-color: rgb(254, 252, 224);">[[1948年]]のパリでの会合で外相は旧イタリアの領土の扱いをどうするかで合意するのに失敗した。会議は[[1949年]]5月から6月にかけて再びパリで行われ、ソ連の行っていた[[ベルリン封鎖]]を終わらせることに同意したが、またもや[[ドイツ再統一]]についての合意を得ることには失敗した。[[1954年]]のベルリンでの会合は膠着したが続く[[1955年]]の[[ウィーン]]での会合で、オーストリアの講和条約について合意を得られた([[オーストリア講和条約]])。</span>
 
1955年7月に[[ジュネーヴ]]で行われた外相による第1回[[ジュネーヴ主要国首脳会談]]と翌年の会談でもドイツ再統一とヨーロッパにおける安全保障と軍事縮小についての合意は得られなかった。[[1959年]]の第3回の会談でもまたもやドイツについて合意はなかった。西側諸国は、講和条約は[[東西ドイツ]]とではなく、民主的な政府の下での再統一されたドイツにおいてしか合意しない姿勢を見せていた。またソ連が提示していたベルリンの状態を「占領下」から「非武装化」に変更することについても拒絶した。
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[[Category:1945年の国際関係]]
[[Category:米ソ関係]]
 
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