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注釈化
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駒姫は、その類いまれな美しさから父母に溺愛されて育ったという。時の関白・[[豊臣秀次]]は、東国一の美少女と名高かった駒姫の噂を聞き、側室に差し出すよう義光に迫った。義光は断ったが度重なる要求に折れ、15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせると約束する羽目に陥る。なお、[[九戸政実]]討伐の帰途、[[山形城]]に立ち寄った秀次を、義光が駒姫に接待させたという挿話は後世の創作とみたほうが妥当である。
 
文禄4年(1595年)、駒姫は京に到着し、最上屋敷で長旅の疲れを癒していたところ、7月15日、秀次は[[豊臣秀吉]]の命により[[高野山]]で切腹させられてしまった。そして駒姫も8月2日に他の秀次の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。まだ実質的な側室になる前だったと言われている。父の義光が必死で助命嘆願に廻り、各方面からも処刑せぬようにと声があがった。秀吉もついにこれを無視できなくなり「鎌倉で尼にするように」と早馬を処刑場に派遣した。しかしあと一町の差で間に合わなかった(<ref group="注">外部リンク「最上義光歴史館」ではこの伝承を「創作の域を出ない」と否定している)</ref>。享年15。その従容とした死に様は、さすが[[大名]]の娘であるといわしめた。
 
辞世の句は、
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娘の死を聞いた母の大崎夫人も、悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。自殺と推察されている。
 
義光の憤激と悲嘆も激しく、この悲劇がのちに彼が[[関ヶ原の戦い]]で東軍に属すきっかけになったという説もある。駒姫の死の翌年、義光は高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依、[[専称寺 (山形市)|専称寺]]を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした。さらに慶長3年(1598年)、八町四方の土地と寺領14石を寄進し城下最大の伽藍を建立、敷地に村山地方の真宗寺院十三ケ寺を塔頭として集め、のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。この寺には、[[山形城]]より駒姫の居室が移築されており、大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されているなお、広く知られている彼女の肖像画は大正期に描かれたものである<ref group="注">もとの画は尼僧姿のもの</ref>
 
==駒姫を演じた女優==
*[[独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)|独眼竜政宗]](1987年 [[大河ドラマ|NHK大河ドラマ]]):[[坂上香織]]
 
== 脚注 ==
=== 出典 ===
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=== 注釈 ===
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==外部リンク==