「都々古別神社」の版間の差分

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『[[続日本後紀]]』[[承和 (日本)|承和]]8年([[841年]])条の「都々古和気神」、ならびに[[延長 (元号)|延長]]5年([[927年]])成立の『[[延喜式]]』[[延喜式神名帳|神名帳]]の[[名神大社]]「都都古和気神社」の[[論社]]とされる{{Sfn|都都古和氣神社(式内社)|1986年}}。
 
[[中世]]からは[[山岳信仰]]が入って[[修験道|修験化]]し、[[別当]]の高松家が管掌した{{Sfn|都々古別神社(棚倉町棚倉)(平凡社)|1993年}}。[[別当寺]]は不動院{{Sfn|都々古別神社(棚倉町棚倉)(平凡社)|1993年}}。高松家の系譜によれば、[[建武 (日本)|建武]]年間([[1334年]]-[[1338年]])からこの高松家が高野郡北郷一帯の宗教・政治・軍事面を掌握し、同じく南郷を掌握した八槻都々古別神社別当の八槻家と並立したとされる{{Sfn|都々古別神社(棚倉町棚倉)(平凡社)|1993年}}。
 
[[近世]]には代々の領主から社領寄進・社殿造営を受けた。[[寛永]]2年([[1625年]])には、[[棚倉藩|棚倉藩主]]の[[丹羽長重]]が[[棚倉城]]を築城するに際して棚倉城跡から現在地に移築・遷座されている<ref name="馬場社由緒書"/>。この際に別当高松家は還俗して藩家老となった{{Sfn|都々古別神社(棚倉町棚倉)(平凡社)|1993年}}。社領は近世初期で363石であったが、[[慶長]]8年([[1603年]])に150石となった{{Sfn|都々古別神社(棚倉町棚倉)(平凡社)|1993年}}。