「三津浜夜襲」の版間の差分

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Yasumi (会話 | 投稿記録)
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* 毛利家の書状には伊予侵攻の準備が[[佐世元嘉]]、[[村上武吉]]父子、曽根景房等を中心に動いていることが読み取れ、総大将とされる[[宍戸景世]]、もしくは[[河野通軌]]の存在は見られない。
* また、『亀老山高竜寺記』に村上武吉配下として出陣した武将の中に、[[塩飽]]島として次の名がでている。
* 旗下大将 宮本佐渡守曾興、同 吉田豊後守福将、士大将 宮本佐渡守福織、番頭 宮本佐渡守福郷、同 吉田又左衛門忠寿。塩飽島は関ヶ原では東軍に付き、有力者が二手に分かれたものと思われるが三津浜の戦いに参戦した武将の結末は伝えられていない。