「アンティゴノス2世」の版間の差分

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父[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]が[[小アジア]]・マケドニアなどで戦争に明け暮れている間、アンティゴノス2世はギリシアで地位を確立する事に努めた。[[ケルト人]]の侵略を撃退し([[紀元前279年]]、[[紀元前277年]])、[[カッサンドロス朝]]の[[ソステネス (マケドニア王)|ソステネス]]王の殺害後、マケドニア王に即位し、父の死で断絶していたアンティゴノス朝マケドニアを復活させた(紀元前276年)。[[紀元前274年]]に[[エピロス王]][[ピュロス]]によって一時王位を追われたが、ピュロスの死後王位を回復した。
 
アンティゴノスの強大化・[[エーゲ海]]の制覇を恐れ、[[スパルタ]]王[[アレウス1世]]が[[アテナイ]]、[[プトレマイオス朝]][[古代エジプト|エジプト]]と同盟してアンティゴノス打倒を図ったため、'''[[クレモニデス戦争]]'''([[:en:Chremonidean War]]、[[紀元前267年]]-[[紀元前261年]])が起こったが、アンティゴノスは勝利を収め、エジプト王[[プトレマイオス2世]]との和議を締結した([[紀元前255年]])。この戦勝によってアンティゴノス朝はギリシアにおける[[覇権]]を確立した。
 
その後も甥アレクサンドロスの反乱、[[アカイア同盟]]との戦争が続き、アンティゴノス朝は苦戦が続いた。
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==参考文献==
*[[グナウス・ポンペイウス・トログス]]/ユスティヌス『地中海世界史』(2004年、合阪學・訳、西洋古典叢書:[[京都大学学術出版会]])
{{先代次代|[[アンティゴノス朝]]の君主|紀元前277年 - 紀元前239年|[[デメトリオス1世 (マケドニア王)|デメトリオス1世]]|[[デメトリオス2世 (マケドニア王)|デメトリオス2世]]}}
{{マケドニア王|前277-前274,前272年-前239}}