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別称 = 青蓮院門跡、旧粟田御所|
札所等 = [[近畿三十六不動尊]]19番|
文化財 = [[不動明王]]ニ童子像(国宝)<br/>木造兜跋[[毘沙門天]]立像、往生要集、円仁自筆書状ほか(重要文化財)|
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[[ファイル:Kyoto Shorenin15n4272.jpg|thumb|220px|宸殿前庭、右近の橘、左近の桜]]
'''青蓮院'''(しょうれんいん)は、[[京都市]][[東山区]]粟田口<small>(あわたぐち)</small>三条坊町にある[[天台宗]]の[[寺院]]。'''青蓮院門跡'''(しょうれんいんもんぜき)とも称する。山号はなし。開基(創立者)は伝教大師[[最澄]]、本尊は[[熾盛光仏頂|熾盛光如来]]<small>(しじょうこうにょらい)</small>である。現在の[[門主]][[住職]])は、旧[[東伏見宮家]]の[[東伏見慈晃]]。
 
== 概要 ==
青蓮院は、[[三千院]](梶井門跡)、[[妙法院]]と共に、天台宗の三門跡寺院とされる。「門跡寺院」とは[[皇室]]や[[摂関家]]の子弟が入寺する寺院のことであり、青蓮院は多くの法親王([[天皇]]の[[皇子]]や[[伏見]][[宮家]]などの皇族の男子で出家後に親王宣下を受けた者)が[[門主]][[住職]])を務め、宮門跡寺院として高い格式を誇ってきた。江戸時代に仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。[[日本三大一覧#寺院・仏像|日本三不動]]<ref>日本三大不動とされるものは青蓮院の'''青不動'''、[[金剛峯寺]]の'''赤不動'''、[[三井寺]]の'''黄不動'''の他に[[不動院岩屋堂]]の黒皮不動明王(黒不動)、[[瀧泉寺]]の目黒不動など諸説ある</ref>の1つ「青不動」のある寺としても知られる。
 
== 歴史 ==
[[三千院]][[妙法院]]などとともに、青蓮院も[[比叡山]]上にあった房(小寺院)がその起源とされている。青蓮院は[[比叡山]]東塔の南谷にあった青蓮坊がその起源であり、門跡寺院となって山下に移ったのは[[平安時代]]末期の[[行玄]]大僧正の時である。[[久安]]6年([[1150年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽上皇]]の后・[[美福門院]]は青蓮院を祈願所とした。また、上皇の第7皇子[[覚快法親王]]が行玄の弟子として入寺し、以後、皇族や摂関家の子弟が門主を務める格式高い寺院となった。山下へ移転した当初は三条白川(現在地のやや北西)にあったが、河川の氾濫を避け、[[鎌倉時代]]に高台の現在地へ移った。ここにはもと十楽院という寺があり、青蓮院の南東にある[[花園天皇]]陵は「十楽院上陵」(じゅうらくいんのうえのみささぎ)と称されている。
 
歴代門主(住職)のうち、3代の慈鎮和尚[[慈円]]は[[歴史書]]『[[愚管抄]]』の著者として著名である。慈円は[[関白]][[藤原忠通]]の子で、歌人としても知られ、天台座主を4度務めている。また、17代門主の[[尊円法親王]]は[[伏見天皇]]の第6皇子で、名筆家として知られる。[[尊円法親王]]の書風は「[[青蓮院流]]」と呼ばれ、江戸時代に広く普及した和様書風「[[御家流]]」の源流である。
 
[[室町時代]]には後に[[室町幕府]]第6代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義教]]となる義円が門主を務めた(同じく第15代将軍[[足利義昭]]は[[興福寺]][[一乗院]]の門主であった)。
 
また衰微期の[[本願寺]]が末寺として属し、後に[[本願寺]]の興隆に尽くした[[蓮如]]もここで[[得度]]を受けている。
 
[[江戸時代]]の[[天明]]8年([[1788年]])、[[天明の大火]]で内裏が焼失した折、青蓮院は[[後桜町天皇|後桜町上皇]]の仮御所となった。このため、「'''青蓮院旧仮御所'''」として国の[[史跡]]に指定されている。
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近代に入り、明治26年(1893年)の火災で大部分の建物が失われた。
 
戦後はこの寺の復興に努力した永井執事との争いがこじれ、ストライキ騒ぎが起きたり、[[日本労働組合総評議会]]が門前に赤旗を並べたこともあった。また1993年4月25日には過激派([[中核派]])の放火により好文亭が焼失したが1995年に再建された。
 
== 境内・伽藍 ==
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[[ファイル:青龍殿.JPG|thumb|none|220px|青龍殿]]
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本堂、宸殿、小御所、華頂殿(書院)、叢華殿、好文亭(茶室)などがあるが、いずれも古いものではない。各建物(好文亭除く)は渡り廊下でつながれている。庭園は室町時代の[[相阿弥]]作と伝える築山泉水庭、江戸時代の[[小堀政一|小堀遠州]]作と伝える霧島の庭などがある。境内西側には[[京都市]][[天然記念物]]のクスノキの巨木(5本)がある。青蓮院では、例年春と秋に期日を区切って夜間拝観を実施し、庭園のライトアップを行っている。
 
*本堂 - 境内奥(南側)に西面して建つ方三間、宝形造の小堂。堂内の厨子には青蓮院の本尊である熾盛光如来の[[曼荼羅]]を安置するが、通常は公開していない(天台宗開宗1,200年を記念し、2005年9月28日より同年12月28日に公開された)。熾盛光如来とは[[仏頂尊]]の一尊で、天台宗最大の秘法といわれる熾盛光法(国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法)の本尊であるが、この如来を寺院の本尊とするのは珍しい。寺伝では[[文禄]]5年(1596年)作の掛軸で、中央に[[種子 (密教)|種子]]「ボロン」(&#X092d;&#X094d;&#X0930;&#X0942;&#X0902;・bhruuM)で表した[[熾盛光仏頂|熾盛光如来]]、周囲に[[八大菩薩]]を表したものという。本堂の東裏には国宝の青不動画像の複製が安置されている。
*小御所 - 本堂の北側に建つ[[入母屋造]]桟瓦葺きの建物。[[天皇]]の仮御所として使用された建物を明治26年(1893年)の焼失後に復興したものである。小御所東側の池を中心とした庭園は[[室町時代]]、相阿弥の作と伝え、その北方の「霧島の庭」(霧島つつじを植える)は小堀遠州の作と伝える。小御所近くにある「一文字手水鉢」は[[豊臣秀吉]]の奉納と伝えている。
*宸殿 - 小御所の西側に建つ、寺内で最も大きな建物。入母屋造、桟瓦葺きで、明治26年(1893年)の焼失後の復興である。「宸」は皇帝の意で、有縁の天皇の位牌を祀る堂である。障壁画浜松図(襖12面、戸襖4面、壁3面の17面)が重要文化財に指定されている。なお、1962年に襖のうち1枚が心ない拝観者により切り取られ行方不明となっている。宸殿西方の四脚門(御幸門)は、[[明正天皇]]の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年の火災をまぬがれている。
*好文亭 - 青蓮院を仮御所としていた[[後桜町上皇]]が学問所として使用した茶室。1993年に放火で焼失し、2年後に復元されたものである。主室は四畳半台目の茶室で、他に四畳半3室、水屋、仏間がある。
*植髪堂 - 境内北方、拝観入口の左方に離れて建つ。3代門主慈円について得度した[[親鸞]]の剃髪が奉られているといわれる。1759年に建立され、1880年現在地に移転。ちなみに、境内の楠の巨木は親鸞の手植と伝えられている。
*長屋門 - 拝観入口の手前右手に建つ門で、宸殿西方の四脚門と同様、明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもの。
*将軍塚大日堂-寺の南東、東山の山頂に位置し、青蓮院の飛び地境内となっている。[[桓武天皇]]が[[平城京]][[遷都]]にあたり、王城鎮護のため将軍の像を埋めた所と伝え、京都市街の見晴らしがよい。ここにも庭園があり、春・秋には夜間拝観が実施される。2012年より大護摩堂「青龍殿」建立工事が行われており、2014年10月4日に[[半田孝淳]]天台座主を大導師として青龍殿落慶青不動明王開眼法要が行われた。これに併せて10月8日~12月23日まで、国宝青不動明王のご開帳と、青龍殿の一般公開が行われ。これまでも将軍塚の横に展望台があったが青龍殿の北に[[京都盆地]]を一望できる舞台も併せて設置されている
 
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=== 青蓮院旧蔵の重要文化財 ===
以下は諸般の事情により、[[第二次大戦]]後に青蓮院の所有を離れた重要文化財である。<ref>文化財保護委員会『指定文化財総合目録 美術工芸品篇』(昭和33年版)において青蓮院の所有とされている物件を挙げた。</ref>
 
*絹本着色普賢延命像([[奈良国立博物館]]蔵)
*光厳院宸翰消息([[出光美術館]]蔵)
*正親町天皇宸翰消息(広島・[[耕三寺]]蔵)
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*[[尊純法親王]](1591-1653)([[応胤法親王]]の王子):門主(慶長3(1598)-)
*[[道寛法親王]](1647-1676)([[後水尾天皇]]の第13皇子)
*[[尊證法親王]](1651-1693)([[後水尾天皇]]の皇子)
*[[尊胤法親王]](1715-1739)([[霊元天皇]]の第15皇子)
*[[尊祐法親王]](1697-1747)([[伏見宮邦永親王]]の第2王子)