「ステファニー・ド・ベルジック」の版間の差分

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夫妻の結婚生活は新婚の時期を過ぎると、幸福なものとは言えなくなった。それでもステファニーは1883年9月2日に[[ラクセンブルク宮殿]]で一人娘[[エリーザベト・マリー・ペツネック|エリーザベト・マリー]]を産んだ。さらに、姑の[[エリーザベト (オーストリア皇后)|エリーザベト]]皇后はステファニーを毛嫌いし(エリーザベトは義妹[[シャルロッテ・フォン・ベルギエン|シャルロット]]が大嫌いで[[ベルギー王室]]を毛嫌いしており、ステファニーがシャルロットの姪であることからステファニーにも嫌悪が向けられた)、面と向かって(義妹のシャルロットをも引き合いに出して)のみならず詩の中でまでも、ことあるごとにステファニーを侮辱し、ステファニーはこれに耐えねばならなかった。義妹の[[マリー・ヴァレリー・フォン・エスターライヒ|マリー・ヴァレリー]]までもが、母に同調してか、ステファニーを嫌った。こうしてステファニーは、オーストリア皇室の中では次第に孤立を深めていった。
 
1889年、夫のルドルフ皇太子が[[マイヤーリンク]]で17歳の[[マリー・フォン・ヴェッツェラ|マリー・ヴェッツェラ]]男爵令嬢と一緒に死んでいるのが発見され、しかも二人の死は[[心中|情死]]であると考えられた。ステファニーは皇后となる望みを断たれた上、夫のスキャンダラスな死に方のせいで[[ウィーン]]宮廷からも遠ざかることを余儀なくされた。ステファニーと父レオポルド2世との親子関係も険悪で、彼女は相続財産をめぐり父と法廷で争わねばならなかった。
 
=== 再婚と晩年 ===
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[1]と[2]は、ともに[[マリア・テレジア]]女帝を祖母とする、いとこ同士。
 
== 外部リンク ==
{{Commonscat-inline|Princess Stéphanie of Belgium}}