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同年11月、[[北条時政]]の奏請により、[[源義経]]・[[源行家]]の追討を目的として五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国に'''[[国地頭]]'''(くにじとう)を設置することが勅許された([[文治の勅許]])。国地頭には[[荘園]]・[[国衙領]]からの段別五升の兵粮米の徴収・田地の知行権・国内武士の動員権など強大な権限が与えられたが、荘園領主の反発を受けて翌年3月には停止され、時政は軍事・検断関係を職務とする惣追捕使の地位のみ保持した(『吾妻鏡』3月1日、2日、7日条)。やがて行家や義経与党が次々に討たれたことから、6月には畿内近国における惣追捕使が停止された(『吾妻鏡』6月21日条)。[[朝廷]]は惣追捕使について「世間落居せざるの間」(『吾妻鏡』3月7日条)と留保条件を付けており、この時期の守護は戦時や緊急時における臨時の軍事指揮官で、平時に戻れば停止されるのが当然という認識があったと推察される。頼朝の諸国守護権が公式に認められた1191年(建久2年)3月22日の建久新制により恒久的な制度に切り替わり、諸国ごとに設置する職は守護、荘園・国衙領に設置する職は地頭として区別され、鎌倉期の守護・地頭制度が本格的に始まることとなった。当初の頼朝政権の実質的支配が及んだ地域は日本のほぼ東半分に限定されており、[[畿内]]以西の地域では[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]を中心とした朝廷や寺社の勢力が強く、後鳥羽上皇の命で守護職が停止されたり、[[大内惟義]]([[平賀朝雅]]の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、[[承久の乱]]以後のことである。
 
その後、守護の職務内容が次第に明確化されていき、1232年(貞永元年)に制定された[[御成敗式目]]において、守護の職掌は、軍事・警察的な職務である[[大犯三条]]の検断(御家人の義務である[[鎌倉]]・[[京都]]での[[大番役]]の催促、[[謀反]]人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)と大番役の指揮監督に限定され、[[国司]]の職権である[[行政]]への関与や[[国衙領]]の支配を禁じられた。しかし、守護が国内の地頭や在庁官人を[[被官]](家臣)にしようとする動き(被官化)は存在しており、こうした守護による在地武士の被官化は、次の室町時代に一層進展していくこととなる。
 
鎌倉中期以降は、[[北条氏]]一門による守護職の独占化が進んだ。これは、[[北条時頼]]の頃から北条本家([[得宗]])による政治の専制化、すなわち[[得宗専制]]が確立していったことに伴うもので、北条一門の守護国は、鎌倉初期の[[1200年]]頃に2国(他氏36国、守護不設置4国<ref>山城(京都守護・[[六波羅探題]])、大和([[興福寺]]支配)、和泉(後鳥羽上皇支配)、越前、紀伊(後鳥羽上皇支配)</ref>)、[[1250年]]頃に17国(他氏24国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、相模(侍所・政所管掌)、</ref>)、[[1285年]]頃に33国(他氏18国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、摂津(六波羅探題)、丹波(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)</ref>)、鎌倉最末期の[[1333年]]には38国(他氏15国、不設置5国<ref>山城(京都守護・六波羅探題)、大和(興福寺支配)、播磨(六波羅探題)、肥前(鎮西探題兼補)</ref>)と鎌倉中期を境に一気に増加していた。こうした事態は、他の[[御家人]]らの不満を潜在化させることとなり、鎌倉幕府滅亡の遠因となったと考えられている。