「吉村公三郎」の版間の差分

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===晩年===
[[1963年]]に[[脳出血]]、[[1972年]]に[[胃]]を全摘出するなどして体力の限界を感じ、[[三國連太郎]]を主演に[[田中正造]]の生涯を描いた[[1974年]]の『[[襤褸の旗]]』を最後に映画の製作から遠ざかり、テレビドラマで名前を見かけるに留まる。「[[鬼平犯科帳 (テレビドラマ)]]」で八代目[[松本幸四郎]]([[松本白鸚 (初代)|松本白鸚]])、[[丹波哲郎]]、[[萬屋錦之介]]版へ監督参加しシリーズに貢献、白鸚版では新藤兼人とも久々にコンビを組む。多くは文筆業を主な仕事にし[[1976年]]、[[紫綬褒章]]、[[1982年]]、[[勲四等]][[旭日小綬章]]を受章。[[1985年]]に映画監督として先輩だった[[牛原虚彦]]や[[1994年]]に新藤の妻で親交が深い女優[[乙羽信子]]が亡くなった際には、それぞれ葬儀委員長を務めている<ref>朝日新聞 [[1985年]][[5月21日]] 朝刊 P.23、社会面</ref><ref>朝日新聞 [[1994年]][[12月23日]] 朝刊 P.27、社会面</ref>。
 
[[1997年]]に妻と死別した後も随筆・寄稿や講演会出演などで健在ぶりを示していたが、2000年11月27日に急性[[心不全]]のため逝去。享年89。