「黎元洪」の版間の差分

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そこで直隷派は再び「誰もが反対しない大総統」として黎元洪を擁立する事を思いついた。前回の経験で形式的な大総統職に就くことに難渋している上に隠居生活を楽しんでいた黎元洪は就任に難色を示したが、結局は直隷派に'''廃督裁兵'''<ref>廃督裁兵:これは督軍を廃止して軍権を中央に集約し、軍閥による地方自治から文官による自治に切り替える事で、軍閥の弱体化による国内の安定を企図したものであった。</ref>を認めさせる事を条件として1922年6月11日に改めて大総統に就任した。再度自ら独自の政策を展開できると思ったのも束の間、またもや黎元洪の政権は各派に振り回されることになる。
 
黎元洪が目指したのは「'''平和的な統一による中央集権国家への移行'''」であり、そのために「廃督裁兵」や「国内各派の取り込み」を行おうとした。しかし旧知の孫文の取り込みを当てにした「平和的な統一」は、孫文の逮捕状を取り下げ閣僚として国民党の要員の派遣を依頼したものの当の孫文が黎元洪の前回の失脚の後に北京政府と袂を分かち「広州国民政府」を樹立しており「'''広州政府が中国唯一の政府であり、黎元洪は新しく来た偽総統'''に過ぎない。もし列強が'''彼を承認するのであれば、それは中国に対する内政干渉'''だ」と内外に対して宣言が発表されたことから失敗。「廃督裁兵」も、軍事力を失う各派の抵抗やそれらに対抗するだけの軍事力の無さは事前に予想していたものの、就任を後援した直隷派の軍事力を後ろ盾にできるだろうと目論んでいた。だが、実際には直隷派も北洋軍閥の一派であり、当初はこれを受諾した直隷派も実行段階になると支援は消極的になった。このため、「廃督裁兵」に成功した省は[[江西省]]1省のみという結果に終わった。またこの時期、何とか名目だけでもと7人の文官を省長として任命するが、各地で地元勢の反対に遭ったために実際に着任したのは僅か2人だけだった。
 
更に就任直後から「黎元洪の大総統就任は直隷派の手によるものであり、'''民主政治と言う割には大総統選任のプロセスが[[中華民国臨時約法|中華民国約法]]に則っていない'''」という議論が沸いた。これに対して黎元洪側は「前回大総統職を離れたのは'''辞任ではなく'''(張勲による)'''外的圧力で職を離れただけである。従って今回大総統に『復帰』した'''のでその任期は1年3ヶ月残っている」と反駁したもののの、説得力に欠け黎元洪の求心力は低下する。