「ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
Hartmann (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
くしなだ (会話 | 投稿記録)
かつてのドイツ語はerをエルと発音していました。老親衛隊より老近衛隊がより正確な訳かもしれませんが、既に老親衛隊で一般化している上、そちらの名称で記事が立っているので
1行目:
[[画像:Gebhard-leberecht-blucher.jpg||thumb|right|200px|ブリュッヘルの肖像画]]
'''ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル'''('''Gebhard Leberecht von Blücher'''、[[1742年]][[12月16日]] - [[1819年]][[9月12日]])は、[[プロイセン王国]]の[[軍人]]。陸軍[[元帥]]。ワールシュタット大公。[[ナポレオン戦争]]後半のプロイセン軍総司令官となり、[[ウェリントン公アーサー・ウェルズリー|ウェリントン]]とともに[[ワーテルローの戦い]]で[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]を破った。攻撃的な性格から'''前進元帥'''(Marschall Vorwärts)と呼ばれる。なお、姓の表記は近年は原語の発音に近い'''ブリュッヒャー'''という表記が用いられることも多いが、本記事では当時の発音に近い'''ブリュッヘル'''を採用する
 
==生涯==
34行目:
[[1815年]]、ナポレオンがエルバ島から脱出すると、ブリュッヘルは再び呼び戻された。ブリュッヘルは[[ベルギー]]に駐留していたプロイセン軍の総司令官となり、再びグナイゼナウを参謀総長とした。[[6月16日]]、プロイセン軍は[[リニーの戦い]]でフランス軍に敗北した。この戦いでブリュッヘルは負傷し、一時的に指揮権をグナイゼナウにゆだねた。グナイゼナウは軍を東へ撤退させ、ナポレオンは[[エマヌエル・グルーシー|グルーシー]]軍を追撃に派遣した。指揮を預かったグナイゼナウは、イギリス軍への不信から、ライン方面への後退を考えていた。この時、病床から起き上がったブリュッヘルが後退を却下し、グナイゼナウが指揮を執ってフランス軍を撃破するよう命じたという。イギリス軍と合流すべく、プロイセン軍は強行軍で西へ軍を返した。
 
[[6月18日]]、[[ワーテルロー]](ラ・ベル・アリアンス)では、フランス軍とイギリス軍が決戦を繰り広げていた。グルーシー軍の追撃をかわしたプロイセン軍は、夕方に戦場に到着し、フランス軍の右翼を攻撃した。中央での[[老衛隊|皇帝近衛隊]]の攻撃が失敗に終わると、イギリス軍も反撃に移り、フランス軍を撃破した。プロイセン軍は徹底した追撃を行い、フランス軍に多大な損害を与えた。[[6月22日]]、ナポレオンが再び退位。[[7月7日]]、プロイセン軍は再度パリへ入城した。
 
なお、この戦いの後、ブリュッヘルは主戦場となったラ・ベル・アリアンス(良き同盟という意味がある)から、ラ・ベル・アリアンスの戦いと命名しようと提案した。しかし、[[ウェリントン公アーサー・ウェルズリー|ウェリントン]]は自分が司令部を置いたワーテルローから、[[ワーテルローの戦い]]と命名した。