「フィリッピの戦い」の版間の差分
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両軍共に「元老院」を勢力を背景にし片側を「元老院派」と表記するのは不適であるため、表記を戻します。 |
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|result=三頭政治側の勝利
|combatant1=[[第二回三頭政治|三頭政治側]]
|combatant2=[[オプティマテス|
|commander1=[[マルクス・アントニウス]]<br>[[アウグストゥス|ガイウス・オクタウィアヌス]]<br>[[グナエウス・ドミティウス・カルウィヌス|ドミティウス・カルウィヌス]]<br>ルキウス・デキディウス<br>ガイウス・ノルバヌス
|commander2=[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス|ガイウス・カッシウス]],{{KIA}}<BR />[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス|マルクス・ブルトゥス]],{{KIA}}<br>[[グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブス (紀元前32年の執政官)|ドミティウス・アヘノバルブス]]<br>[[マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス|メッサッラ・コルウィヌス]]<br>[[マルクス・リウィウス・ドルスス・クラウディアヌス|マルクス・リウィウス]],{{KIA}}
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|casualties2=戦死 9,000以上
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'''フィリッピの戦い'''({{lang-el|Μάχη των Φιλίππων}}、{{lang-la|Pugna apud Philippos}})は、[[ガイウス・カッシウス・ロンギヌス]]および[[マルクス・ユニウス・ブルトゥス]]らが率いる[[オプティマテス|リベラトレス]]
戦いはフィリッピ([[ピリッポイ]])西方の平原で10月3日と10月23日の2度行われた。名称はラテン語表記の「ピリッピの戦い」とも称される。
== 開戦までの経緯 ==
[[紀元前44年]]3月、[[共和政ローマ|共和政]]の簒奪を企んだ[[終身独裁官]][[ガイウス・ユリウス・カエサル]]を暗殺したマルクス・ブルトゥスやカッシウスらはイタリア本土を去って、[[マケドニア属州]]を拠点<ref>プルタルコス「英雄伝」キケロ47</ref>{{refn|group=Note|カエサル暗殺後にカッシウスらはマケドニアを実効支配していたが、[[紀元前43年]]2月に元老院より正式にマケドニア属州総督の割り当てを受けた<ref>キケロ「ピリッピカ」10</ref><ref>ウェッレイウス 2.62</ref>。}}として、マケドニアで{{仮リンク|ガイウス・アントニウス
一方のローマ本国では、カエサルの後継者を自称するアントニウス、オクタウィアヌスおよび[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス]]の3人が[[第二回三頭政治]]を結成。[[プロスクリプティオ]]によって[[マルクス・トゥッリウス・キケロ]]ら反対派の元老院議員が殺害された<ref name="Velle2.64">ウェッレイウス 2.64</ref>。また、
三頭政治側の最初にして最大の目標はカエサル暗殺事件の首謀者であるマルクス・ブルトゥスとカッシウスを討ってカエサルの復讐を果たし、更にはローマ世界全体の支配権を得ることであった。
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三頭政治側はリベラトレス討伐を決定すると、レピドゥスをイタリアへ残して、残る2人(アントニウス、オクタウィアヌス)は合計28個の[[ローマ軍団]]と共にマケドニアへと出征した<ref>プルタルコス「英雄伝」アントニウス 21</ref>。
三頭政治側は{{仮リンク|ガイウス・ノルバヌス・フラックス
ノルバヌスとデキディウスはマケドニア東部のフィリッピ(現:[[ピリッポイ]])を通り過ぎて、狭隘な山岳地帯へ強固な陣営地を構えた。リベラトレス側はノルバヌスやデキディウスが率いる三頭政治側の軍を側面から包囲することに成功し、ノルバヌスらに自陣営を放棄、フィリッピの西方へと撤退させた<ref name="PC38">プルタルコス「英雄伝」ブルトゥス 38</ref>。
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[[プルタルコス]]は、アントニウスがブルトゥスの遺体に敬意の証として紫色のマントを掛けたと伝えている<ref name="Bru52"/>。アントニウスがブルトゥスが友人であったこと以外に、ブルトゥスがカエサル暗殺計画へ加わった際にアントニウスの命を助けるように要求していたのを覚えていたことが理由であった。スエトニウスは「オクタウィアヌスがブルトゥスの首級をローマへ届けて、カエサルの像の下に晒した」と伝えるが<ref>スエトニウス「皇帝伝」アウグストゥス13</ref>、プルタルコスはアントニウスによってブルトゥスの遺骨が母[[セルウィリア・カエピオニス|セルウィリア]]の元へ届けられたと「英雄伝」に記している<ref>プルタルコス「英雄伝」ブルトゥス 53</ref>。
リベラトレス側では、
ルキウス・カルプルニウス・ビブルスや[[マルクス・ウァレリウス・メッサッラ・コルウィヌス]]などのリベラトレス側で逃れた人物は、恐らくは若く冷酷なオクタウィアヌスに対処されるのを望まなかったため、アントニウスへ降伏した{{refn|group=Note|降服したブルトゥス軍の将校に対するオクタウィアヌスの冷酷な対応により、ブルトゥス軍の将校はアントニウスに敬意を表した一方、オクタウィアヌスへは痛烈な罵倒を浴びせたとの事例をスエトニウスは紹介している。<ref>スエトニウス「皇帝伝」アウグストゥス 13</ref>。}}。
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オクタウィアヌスはこの戦いで退役した多くのベテラン兵士を入植させるという複雑な問題へ対処するためイタリア本土へ戻り、アントニウスはブルトゥスらが支配していた東方地区の治安維持のために同地へ留まった<ref>アッピアノス「Civil Wars」5.1</ref>{{refn|group=Note|アントニウスは合戦でリベラトレス側で参戦したオリエント諸国へ渡って、各地の支配者と会談した。その中には[[プトレマイオス朝]]の[[クレオパトラ7世]]も含まれていた<ref>プルタルコス「英雄伝」アントニウス 24</ref>。}}。
[[セクストゥス・ポンペイウス]]が[[シチリア]]を勢力圏に置き、ドミティウス・アヘノバルブスが海軍を握っていたが、リベラトレス側の抵抗はフィリッピでの敗北で終結した。なお、セクストゥスとドミティウスは連携しながら三頭政治側と争った<ref>ウェッレイウス 2.72</ref>が、[[紀元前40年]]にドミティウスは
フィリッピの戦いで勝利に最も貢献したアントニウスは生涯のキャリアで頂点を迎えた、[[第二回三頭政治]]の一頭として、かつローマで最も有名な将軍となり、アントニウスの人生はこの時に決定付けられた。
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