「溝口秀勝」の版間の差分

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天正10年([[1582年]])、[[本能寺の変]]で信長が横死した後は、羽柴秀吉([[豊臣秀吉]])に属した。天正11年([[1583年]])、[[賤ヶ岳の戦い]]後、[[越前国]][[福井城|北ノ庄城]]に入封した丹羽長秀の与力として、[[加賀国]][[江沼郡]][[大聖寺城]](現[[石川県]][[加賀市]][[大聖寺町]])4万4,000石を与えられた。
 
天正13年([[1585年]])4月、長秀が死去し、その長男・[[丹羽長重|長重]]が家督を継いで北ノ庄城となるが、閏8月、[[若狭国]]に転封となり、代わって北ノ庄城に入封した[[堀秀政]]の与力として引き続き配属された(この時、秀吉より[[朱印状]]を与えられ、独立した大名となったといえる)。
 
天正14年([[1586年]])11月14日、[[従五位|従五位下]]・[[伯耆国|伯耆守]]に叙任され、秀吉から[[偏諱]]を受けて秀勝と改名し、[[豊臣氏|豊臣姓]]を授与された「溝口文書」<ref>[[村川浩平]]「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」(『駒沢史学』49号、1996年)のちに『日本近世武家政権論』(日本図書刊行会、2000年)に所収</ref>。[[文禄・慶長の役|朝鮮派兵]]の際は、[[肥前国]][[名護屋城]]を守備した。[[慶長]]3年([[1598年]])、越後国[[蒲原郡]][[新発田城]](現[[新潟県]][[新発田市]])6万石を与えられた。