「ベルトルト・ブレヒト」の版間の差分

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[[1948年]]10月にプラハを経由して、[[チェコスロバキア]]国境を越えて東ドイツに到着。[[東ベルリン]]に居を構えたブレヒトは、1949年にベルリーナー・アンサンブルを結成。同年11月にブレヒト演出による第1回公演『プンティラ旦那と下男マッティ』が初演された。[[1949年]]にはヴァイゲル主演の『[[肝っ玉おっ母とその子供たち]]』がチューリッヒで初演されている。1950年代にはブレヒトは古典の改作に着手し、[[ヤーコプ・ミヒャエル・ラインホルト・レンツ]]『家庭教師』、[[ウィリアム・シェイクスピア]]『コリオレイナス』、[[ゲアハルト・ハウプトマン]]『ビーバーの毛皮』、[[モリエール]]『ドン・フアン』などを改作している。1950年[[芸術アカデミー]]会員となり、1953年に東西ベルリンのペンクラブ会長に選出された。[[1954年]]、ベルリーナー・アンサンブルがドイツ座から現在の本拠地シッフバウアーダム劇場へ移転。1954年にパリ国際演劇祭で最優秀上演と最優秀演出を受賞、翌55年には『コーカサスの白墨の輪』も第2位となり世界的な名声を得た。
 
1955年、[[レーニン平和賞|スターリン国家平和賞]]受賞。[[1956年]][[8月14日]]、心臓発作のためベルリンで死去。遺言に従って遺体は錫の棺に収められ、墓はベルリン市中央部にある市立ドローテン墓地に[[ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル]]と[[ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ]]の墓に向き合って作られた。
 
1998年には生誕100年を記念してベルリン芸術アカデミーの記念式典が行われ、[[ローマン・ヘルツォーク]]大統領やベルリン市長も墓地を訪れた。