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==中華人民共和国成立後==
[[ファイル:Soong, Mao, Zhou, Chen and Zhang.jpg|300px|thumb|中華人民共和国の首脳陣と(左から[[張聞天]]・[[毛沢東]]・宋慶齢・[[周恩来]]・[[陳毅]])]]
[[1949年]]、[[国共内戦]]が終結すると、台湾に逃れた蒋介石、宋美齡と行動を別にし中国大陸に残留。中華人民共和国成立後は中央人民政府副主席を務め、同時に中華全国民主婦女聯合会名誉主席に選出された。[[1950年代]]には[[インド]]、[[パキスタン]]、[[ビルマ]]、[[インドネシア]]を歴訪するなど外交政策に関与するなどしたが、それは中国革命の指導者である国母・孫文夫人としての政治的関与であり政治的実権はなく、主に婦女の保健衛生、文化教育活動に尽力し、[[1951年]]には[[レーニン平和賞|スターリン平和賞]]を受賞、この賞金を基礎に上海に婦幼保健院を建設している。[[1954年]]9月、[[全国人民代表大会]](全人代)が成立すると、[[全国人民代表大会常務委員会]]第一副委員長に選出される。[[1959年]]4月、国家副主席に就任した。
 
[[文化大革命]]では[[江青]]の指導の下、上海の造反派は宋家を資産階級であると批判した。宋慶齢も蒋介石の義姉であることから「蒋匪」として批判を受けた。父母の墳墓が破壊され自身への攻撃も強まったが、[[毛沢東]]による「文革保護対象名簿」の第一位として保護され、直接迫害が及ぶことはなかった。