「加藤哲郎 (野球)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
38行目:
ペナント最終戦でチームが[[マジックナンバー (野球)#逆マジック|逆マジック]]をかけたものの敗れた[[1988年]]([[10.19]]を参照<ref>なお、10.19では優勝がほぼ消滅した10回裏から登板している</ref>)や、2位[[オリックス・バファローズ|オリックス]]とゲーム差なし、3位[[埼玉西武ライオンズ|西武]]と0.5ゲーム差で熾烈な争いを展開し優勝した[[1989年]]は、先発・中継ぎにフル回転した。[[10.19]]でも延長戦でイニングを3分以内に終わらせなければ引き分けで事実上西武の優勝が確実となった場面で登板した。
 
1989年[[10月12日]]の西武との[[ダブルヘッダー]]に連勝した近鉄は、マジック1として[[10月14日]]の[[藤井寺球場]]での対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]戦において先発した加藤は6回1/3を1失点で勝利投手となった。[[読売ジャイアンツ]]との[[1989年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも3試合に登板するが、勝利投手となった第3戦での試合後[[ヒーローインタビュー]]での発言内容がクローズアップされ、話題となった(詳細は[[#巨人との日本シリーズでの発言|後述]])。なお、近鉄において日本シリーズで先発した投手が勝利投手となったのは加藤が最後となった<ref>近鉄最後の[[日本シリーズ]]となった[[2001年の日本シリーズ]]は1勝4敗で敗退しており、唯一の勝利は中継ぎである[[岡本晃]]に付いたためである。[[2004年]]シーズン終了後に[[オリックスバファローズ|オリックス]]と合併し、近鉄は消滅した</ref>。
 
[[1990年]]は右肩の故障で成績が低迷し、[[1991年]]に中継ぎで6勝無敗の成績を挙げたものの、その後再度右肩を痛め、[[1993年]]11月に近鉄を[[自由契約]]となり、入団テストを経て[[広島東洋カープ]]に移籍する。広島ではサイドスローに転向し、通算150登板を果たすも1年で[[戦力外通告]]を言い渡される。[[1994年]]11月、ダイエーにテスト入団にて移籍するが、1年で引退。ダイエーでの一軍登板は無かった。