「紀州征伐」の版間の差分

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人民軍 (会話 | 投稿記録)
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天正10年([[1582年]])1月23日、鈴木孫一は土橋若大夫を暗殺した。孫一は事前に信長に連絡して内諾を受けており、織田信張とその配下の和泉衆・根来衆の応援を得て土橋氏の粟村(現和歌山市)の居館を攻めた。土橋派は若大夫の遺児5人を立てて抗戦したが、2月8日には[[土橋平次]]・平尉(平丞)兄弟は逃亡、根来寺[[泉識坊]]<ref>泉識坊の門主は土橋氏出身なのが通例で、この泉識坊も土橋氏と推定される(『戦国合戦大事典』p.281)。若大夫の子とする説もある(『荘園の世界』上巻p.279)。</ref>は討ち取られるなど雑賀の内紛は孫一の勝利で決着した。信長の後ろ盾を得た孫一主導の下、雑賀衆は織田信孝の四国攻めに船百艘を提供するなど、織田氏との関係を強めていく。
 
|=== 高野攻め ===
{{Battlebox
|battle_name = 信長の高野山攻め
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| strength1 = 13万7000
| strength2 = 3万6000
|}}
|}}
 
高野山は[[真言宗]]の本山として[[延暦寺|比叡山]]と並ぶ信仰の中心であると共に、全国に散在する寺領の合計は17万石に達する<ref>『戦国合戦大事典』p.258より。</ref>紀伊の一大勢力であった。