「一宮成相」の版間の差分

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'''小笠原 成助'''(おがさわら しげなりすけ、生年不明 - [[天正]]9年([[1582年]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。[[長門国|長門]][[国司|守]]。[[阿波国|阿波]][[小笠原氏]]の当主。[[一宮城 (阿波国)|一宮城]]を居城とした事から「一宮成助」とも呼ばれる。名は成祐、読み方は「なりすけ」ともで、'''成祐'''や'''成佐'''など同音異字の表記がある。妻は[[三好長慶]]の妹、[[野口冬長]]女。
 
== 生涯 ==
[[三好氏]]に属して各地を転戦。永禄5年([[1562年]])の[[久米田の戦い]]にも参陣。大将である[[三好実休]]が戦死する敗戦となったが、撤退戦では配下を見事に指揮して無事に撤退に成功している。しかし、長慶の死後、三好氏の勢力が衰退し、[[三好長治]]が当主となった頃には、[[長宗我部氏]]に鞍替えし、天正5年([[1577年]])から天正8年([[1580年]])にかけて[[勝端城]]を巡って長宗我部氏の支援を受けながら[[十河存保]]と争奪戦を繰り広げている。
 
以後も、長宗我部氏の四国統一戦に従ったが、1582年11月<ref>9月3日とも。山本大『長宗我部元親』95頁。</ref>に[[三好康長]]に内応したとして<ref>内応した相手は富岡城主の[[新開実綱]]ともいう。</ref>して織田方に寝返り、[[中富川の戦い]]の後で再び長宗我部元親]][[夷山城]]で討たれて降参まっ。弟の成孝(光孝とも)は、兄謀殺された際に[[讃岐国]]へ逃亡し、その子である光信の代で、[[蜂須賀氏長宗我部元親]]に仕え咎められ[[一宮神社切腹を命じられた<ref>{{Citation (徳島市)|一宮神社]]の[[神職]]として血脈を残している和書|last=|first=|editor=近藤瓶城 |year=1930|series=続史籍集覧| volume=第7|title =長元物語|publisher=近藤出版部|url=http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1259252/154 国立国会図書館デジタルコレクション|ref=cc7|pages=34-35}}</ref>
 
弟の成孝(光孝とも)は、兄が謀殺された際に[[讃岐国]]へ逃亡し、その子である光信の代で、[[蜂須賀氏]]に仕え、[[一宮神社 (徳島市)|一宮神社]]の[[神職]]として血脈を残している。
 
== 逸話 ==