「ハインリヒ・イザーク」の版間の差分

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盛期[[ルネサンス音楽]]の[[フランドル楽派]]の[[作曲家]]。[[ジョスカン・デ・プレ|ジョスカン]]と同世代の作曲家の中では最も重要と看なされている。
 
イザークの生い立ちについて詳細は不明だが、おそらく[[フランドル]]の出身。[[1470年代]]までには作曲していたことが分かっており、イザークに関する最初の文書は[[1484年]]にさかのぼる。同年イザークは[[インスブルック]]の宮廷作曲家だった。翌年、[[フィレンツェ]]の[[ロレンツォ・デ・メディチ]]の宮廷音楽家となり、[[オルガン]]奏者、[[宮廷楽長]]ならびにロレンツォの子供たちの家庭教師をつとめた。[[1497年]]までにイザークは、[[神聖ローマ帝国]]皇帝[[マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝)|マクシミリアン1世]]に仕官し、主君に同行して[[ドイツ]]各地を歴訪、当時のドイツの作曲界に多大な影響を及ぼしたと見なされている。[[1514年]]に[[フィレンツェ]]に戻り、同地で他界した。
 
イザークは幅広い変化にとんだ楽曲をのこしており、[[ミサ曲]]、[[モテット]]、[[ドイツ語]]歌曲、[[イタリア語]]歌曲、器楽曲などがある。当時の最も多作な作曲家のひとりだが、永年にわたるジョスカンへの好評からその陰に隠れてきたきらいがある。(ちなみに[[アントン・ヴェーベルン]]はイザークに関する論文で学位を取得している。)
 
彼の最も有名な作品は、おそらくドイツ・[[リート]]《'''インスブルックよさらば''' ''Innsbruck, ich muß dich lassen'' 》であろう。この曲は、しかしながら旋律そのものはイザークの創作ではなく、単なる(民謡の)編曲だったのかもしれない。この旋律は後に[[ルーテル教会|ルター派]]の[[コラール]]《おお世よ、われ汝より離れざるを得ず ''O Welt, ich muß dich lassen'' 》にも流用され、[[ヨハン・ゼバスティアン・バッハ|バッハ]]作品や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の[[オルガン]]曲の基礎となった。
 
イザークは《コラリス・コンスタンティヌス(コンスタンツ大聖堂の合唱曲)''Choralis Constantinus'' 》を未完成のままで遺した。これはミサ固有式文の通年分を完全に作曲(多声化)する最初の試みとして知られ、およそ100曲が含まれている。イザークの門弟[[ルートヴィヒ・ゼンフル]]がこの曲集を完成させたが、その死後[[1555年]]になるまで出版されなかった。イザークはミサ通常文によっても40曲あまりを遺した。