「久米三十六姓」の版間の差分

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== 概要 ==
一般的には、琉球国王[[察度]](在位[[1350年]] - [[1395年]])の時代の1392年、洪武帝の命により多くの学者や航海士などの職能集団が来琉したと言われる。その多くが現在の[[福建省]]あたりに存在した[[ビン南語|閩]](びん)と呼ばれる地域の出身だったため'''閩人三十六姓'''と呼ばれた。その後、しかし福建人だけではなく福建省から渡来した[[客家]]も含まれるとが明らかになってきている。彼らは[[那覇市|那覇]]の久米村(現・[[久米 (那覇市)|那覇市久米]]、唐栄とも)に定住したことから久米三十六姓と呼ばれるようになる。三十六姓といっても三十六人いたわけではなく、当時の[[中国]]では「三十六」はとても多い事の意味で、その中国から大勢の人が来たためそう呼ばれた。一時は五姓にまで減ったとも言われている。また久米三十六姓の末裔、及び久米村に住んでいた人々は'''久米村人'''(くにんだんちゅ)と呼ばれた。
 
久米三十六姓の末裔たちは、[[琉球]]が[[廃藩置県]]で[[沖縄県]]になるまで約五百年の間、主として中国-琉球間の外交、貿易に従事し、久米士族としては異例の[[三司官]]に就任した[[蔡温]]をはじめ、多くの政治家、学者等を輩出した。
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[[Category:那覇市の歴史]]
[[Category:華人]]
[[Category:客家]]
[[Category:名数36]]
[[Category:渡来人]]