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{{出典の明記|date=2008年5月}}
{{Redirect|瞑想|[[パスピエ (バンド)|パスピエ]]の楽曲|幕の内ISM}}
'''瞑想'''(めいそう、Meditation、メディテーション )とは、心を静めて神に祈ったり、何かに[[心]]を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者([[神]])をありありと体感したり、究極の[[般若|智慧]]を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。
 
精神科医の安藤治は、現代的視点から瞑想研究を紹介する『瞑想の精神医学』で、「伝統的により高度な意識状態あるいはより高度な健康とされる状態を引き出すため、精神的プロセスを整えることを目的とする注意の意識的訓練のことであるが、現代においては[[リラクセーション]]を目的としたり、ある種の心理的治療を目的として行われることもある。」と定義している<ref name="安藤">安藤治 著 『瞑想の精神医学 トランスパーソナル精神医学序説』 春秋社、2003年</ref>。「通常の意識状態、通常の健康よりも優れた」という価値の設定は、現在一般に認められている科学的世界観をはみ出しており、こういった価値付与を避けて、瞑想を「[[変性意識]]状態」として位置付ける見方もある<ref name="安藤"/>。
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瞑想は東洋・西洋共に行われてきたが、ユダヤ教やキリスト教では宗教的実践の中心に据えられることはなかったため、欧米に広く知られるようになったのは、東洋の瞑想伝統の流入以降である。当初は懐疑的に捉えられ、とくに精神分析的訓練を受けた専門家たちは強い拒絶感を持ち、「瞑想とは、子宮内の生活状況への心理学的、身体的退行であり…一種の人工的[[精神分裂症]]である。」などと説明された。1960年代から70年代には、欧米に様々な東洋的瞑想実践が導入され、次第に正当な評価を心がける心理学者や精神科医も現れるようになった。
 
瞑想は欧米で補完・代替医療としても注目され、研究が行われてきた。初期の研究の多くは、超越瞑想の普及を目指すマハリシ財団旗下の大学で超越瞑想を対象に行われたものが多い<ref name="コーワン"/>。これは[[ヒンドゥー教]]に由来する瞑想法で、支持者は自己啓発法やリラックス法として科学的に効果が証明されていると主張され普及われおりいる<ref name="コーワン"/>。支持者は他の瞑想法と異なり心を集中させることはないとされいるおり<ref>Maharishi Mahesh Yogi on the Bhagavad-Gita: A Translation and Commentary, Chapters 1-6 (Penguin Books; Reprint版 1990年)</ref>、研究者は「マントラ(静かに復唱する単語、音、または語句)を用いて心に入り込む雑念を追い払う」と説明している<ref name="厚生労働省">[http://www.ejim.ncgg.go.jp/public/overseas/c02/07.html 瞑想 [[アメリカ国立衛生研究所]]] 「統合医療」情報発信サイトの翻訳 厚生労働省「統合医療」に係る情報発信等推進事業</ref>。多くの研究者は、超越瞑想の研究はその実践者や支持者によるもので、研究結果及び研究方法の妥当性に疑問を投げかけている<ref name="コーワン">ダグラス・E・コーワン、デイヴィッド・G・ブロムリー 著 『カルトと新宗教 アメリカの8つの集団・運動』 村瀬義史 訳、キリスト新聞社、2010年</ref>。瞑想法の種類によって心身への影響は異なると考えられているが、その点を考慮せず行われた研究も少なくない。
 
[[ペンシルバニア大学]]の{{仮リンク|アンドリュー・ニューバーグ|en|Andrew B. Newberg}}は、深い瞑想状態や祈りの状態にある者の脳内の神経学的変化を研究した。ニューバーグによると、深い祈りを込めた瞑想は、上[[頭頂葉]]後部の活動を低下させ、血流を減少させていた。また瞑想者の[[メラトニン]]や[[セロトニン]]濃度は上昇し、[[コルチゾール]]や[[アドレナリン]]濃度は低下していた。前者2つのホルモンはリラックス時には上昇し、後者2つはストレス負荷により上昇するので、この変化は理に適っているとした。
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==弊害・危険性==
瞑想のもたらす心理学的作用が報告されるようになり、健康管理、心理治療、教育などの分野に応用されるようになったが、研究の増加につれて、その弊害も報告されるようになった。安藤治は、臨床場面で安易に瞑想を適用ないし「処方」することが孕む大きな危険性を直接的に示すものであり、非常に重要な臨床的報告であると述べている<ref name="安藤"/>。弊害としては、時折起こるめまい、現実との疎外感、それまでになじみのなかった思考、イメージ、感情などが引き出され、それらに敏感になることによってもたらされる苦痛(妄想的な思考にとらわれる、不安に付きまとわれる頭痛、消化器の不調など)、また、不安、退屈、憂鬱感、不快感落ち着きのなさの増大などが報告されている<ref name="安藤"/>。瞑想によりそれまで保たれてきた防衛のメカニズムが崩され、普段は意識にのぼってこない幼児期の体験の記憶や不快な体験の記憶、身体の痛みが浮上することがよくある<ref name="安藤"/>。またかつて精神病を体験した人の場合、症状が再発する可能性があり、心理学的な知識のない瞑想指導者がさらに集中的な瞑想をするようにすすめ、症状が一層悪化する可能性もある<ref name="安藤"/>。心理学的知識のない指導者・熟練していない指導者の指導を受ける場合、大きな危険がある。
 
長期のリトリート(集中合宿)の場合、瞑想体験が進化し内面への意識の集中が深まり、日常生活から意識が遠ざけられることになるが、そこからに日常生活に戻る際に障害がみられることがある<ref name="安藤"/>。その症状は精神医学で[[離人症]]と呼ばれる症状に酷似しており、長期瞑想者のほとんどがこの離人症を体験しているともいわれ、実際に精神科を受診せざるをえなくなったケースもある<ref name="安藤"/>。
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これらの研究は、少なくとも瞑想には不向きな人がいること、瞑想を治療として処方することは安易にはできないこと、様々な瞑想伝統が示すように瞑想には十分な準備が必要である可能性などを研究者たちに示した<ref name="安藤"/>。
 
瞑想修行においては、生のすべてが意味を失い、深い苦痛や絶望、重苦しい抑うつにさいなまれる「魂の暗夜」という状態がある<ref name="安藤"/>。(通常のうつ病的状態とは異なり、決して自殺に追い込まれることはないという<ref name="安藤"/>。)スピリチュアリティへの強い欲求や志は、本質的に自己の責任の放棄という要素があるため、外的対象に依存しがちになり、スピリチュアル・アディクション(中毒)に陥る可能性が常に強くある<ref name="安藤"/>。特に現実逃避の傾向のある人が瞑想などのスピリチュアルな実践を行う場合、安易に中毒が起きやすく、また抜け出しにくい。自己がしっかりと確立される前の人が行う場合も、現実逃避の温床になりやすく、スピリチュアル・アディクションを招きかねない<ref name="安藤"/>。
 
瞑想修行がすすみ、集中的瞑想の段階に入ると、通常では体験しないさまざまな心的要素が次々現れる。多くの瞑想伝統では、悟りに至る過程の一現象であり、「副作用」に過ぎないものとされるが、瞑想者に非常に大きな衝撃を与える体験であり、道を踏み外したり病理的な事態に陥るといったことが知られている<ref name="安藤"/>。欧米ではまだこの段階に達している瞑想者は少ないため、研究にも混乱が見られるが、感情的・身体的エネルギーの激発(体の一部が突然動く、急に脊髄が燃えるように感じられて体中が熱くなる、身体各部に強烈な痛みを感じる、身体各部の緊張が急に解き放たれる、様々な色の光に襲われる、強い[[エクスタシー]]を伴って身体全体が震える、複雑で劇的な身体の動きが数日~数年続く、など)があり、[[ヒンドゥー教]]で「[[クンダリニー]]の覚醒」と言われる状態と思われる<ref name="安藤"/>。また瞑想集中期には、身体が大きくなったように感じたり重く感じる、また体外離脱や幻聴などの知覚の変容、急に強い絶望感、喜び、深い悲しみ、恐怖に襲われるといったこともある<ref name="安藤"/>。感情が大きく揺れて制御できなくなる、過去世のようなヴィジョン、見たことのない情景が現れるなど、古代的・元型的イメージが浮かび上がり、これに伴う強烈な光や色に圧倒されて、精神のコントロールができなくなることさえあるという<ref name="安藤"/>。瞑想熟練者によるきめ細やかな指導がない場合、病理的な状態に陥る可能性もある<ref name="安藤"/>。指導を無視したり正しい瞑想法を行わずに、完全に精神病的状態になり、薬物治療が必要になったケースも知られている<ref name="安藤"/>。
 
集中的瞑想が深まると、すばらしい喜び、至福の感情、魅惑的な恍惚感、強烈な解放感が湧き上がることがあり、これを瞑想の最終的ゴールと間違えることが多い<ref name="安藤"/>。シュード・ニルヴァーナ([[涅槃]])と呼ばれており、強烈な幸福感を呼び覚ますため、一度体験するとそれにしがみついて手放そうとしなくなったり、悟りの境地に達したと感じて有頂天になることがあるという<ref name="安藤"/>。多くの瞑想伝統には、こうした体験を評価する洗練されたシステムがあり、シュード・ニルヴァーナには距離を持って接するよう指導される<ref name="安藤"/>。
 
また日本の[[禅]]にも、修行の途中で様々な精神的・身体的不調をきたす状態が修行者たちに知られ、「禅病」と呼ばれてきたが、詳細な記録は少ない<ref name="安藤"/>。江戸時代の名僧[[白隠]]は、若い時に過酷な修行で禅病に悩まされ、経緯や症状その克服法「内観の法」「軟酥の法」を『夜船閑話』に書き残している<ref name="安藤"/>。
 
== 脚注 ==
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[[ファイル:Jain meditation.jpg|thumb|right|200px|[[ジャイナ教]]徒の瞑想]]
* [[黙想]]
* [[祈り]] / [[霊操]]
* [[キリスト教神秘主義]]
* [[三昧]] / [[ヨーガ]] / [[マントラ]] / [[ヤントラ]]
* [[止観]] / [[ヴィパッサナー瞑想]] / [[サマタ瞑想]]
* [[三昧]]
* [[坐禅]]、[[経行]]、[[禅]]
* [[観想]] / [[念仏]]
* [[真言宗]]、[[マントラ]]、 / [[真言]] / [[種子 (密教)|種子]] / [[曼荼羅]]
* [[阿字観]]
* [[ヴィパッサナー瞑想]]
* [[サマタ瞑想]]
* [[トンレン]]
* [[内丹術]]