「日本軍の階級」の版間の差分

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=== 明治2年 ===
明治2年7月に、軍務官を廃止し[[兵部省]]が置かれ、大中少将が置かれた。明治3年9月には、大佐から少尉まで置かれた。この時期、順次官階の整備が進められるなど海軍の体制が確立されつつあり、明治2年9月に海軍操練所を開設し、海軍士官の養成に着手した<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|1062905/24}} {{Cite book
|author = 澤鑑之丞
|date = 1942年
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|publisher = 文政同志社
|page = 27
}}]</ref>。海軍操練所は、明治3年11月に、海軍兵学寮と改称されたが、この時代には、将校と機関官との区別がなかったようで、機関官の淵源は明治3年11月に[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学寮]]に入校した者に起こり、同8年10月9日に卒業した者が嚆矢である<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|812625/8}} {{Cite book
|author = 海軍機関学校
|date = 1908年
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明治6年8月8日<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA07062089000、42頁。</ref>、将官・上長官・士官・下士の分類が設けられたほか、権曹長が廃止された。官階は、10等を欠き、曹長を11等とした。機関士副が再置され、下士に分類された。中士の名称を廃止し、官階11等から15等までを下士に分類した。卒5等中より、艦船限りで傭役する者を区別した。
 
最初の海軍兵学校卒業生は、明治6年11月に卒業した平山藤次郎及び森又七郎である<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|1062905/25}} {{Cite book
|author = 澤鑑之丞
|date = 1942年
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明治7年7月、機関科に機関士補を置いたが、官等には列しなかった。5月、秘史局・軍務局が廃止された。[[台湾出兵]](明治7年)は、この頃である。
 
明治8年当時の下士の官階を整理すると、次の通りであった<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784424/48}} {{Cite book
|author = 物集高材
|date = 1875年
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艦内教授役とは、軍艦・機関の運用及びその他艦内諸機械一切の用法等全てこれらに属する諸般の事務を教授することを掌るものであった
<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784424/50}} {{Cite book
|author = 物集高材
|date = 1875年
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警吏とは、艦内を巡視し、諸員の勤惰及び不慮の災害等全てこれらに属する一切のことを監視することを掌るものであった
<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784424/50}} {{Cite book
|author = 物集高材
|date = 1875年
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}}]</ref>。
 
槙筎工長とは、本艦或いは端舟等の漏孔に槙筎を填めて潮水が濫入することを防ぐことを掌るものであった<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784424/58}} {{Cite book
|author = 物集高材
|date = 1875年
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=== 明治15年6月~ ===
明治15年6月、曹長・軍曹・伍長を廃止した。秘書科を廃止した。軍医部だけであった総監を、機関・主計部にも置いた。機関・軍医・主計部の機関士副・軍医副・主計副を廃止し、「〇〇補」を新設等して、これらをともに准士官(官階10等)とした。大中少医監を廃止し、軍医大中少監を置いた。機関・軍医・主計の3部を准将校と称し、武官とした<ref>アジア歴史資料センター、レファレンスコードA04017113000、12頁によると、この時転換したように読めるが、他方、物集高材によると、明治8年当時に既に大医監以下や、機関士副らを海軍武官の項に載せている([http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784424/58}} {{Cite book
|author = 物集高材
|date = 1875年
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|}
 
明治17年の帆縫夫等廃止前の明治17年当時の卒、准卒の職名表は次の通りである<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|843294/88}} {{Cite book
|author = 森貞次郎
|date = 1884年
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=== 明治30年12月1日~ ===
明治30年12月1日に、中佐・中尉を再設置し、少佐相当官として薬剤正・水路正を新設し、下士卒出身者を予定した「士官」として兵曹長・軍楽長・船匠長・機関兵曹長・看護長・筆記長が置かれたが、「特務士官」の区分はなく、兵曹長等は少尉等と同等の官即ち士官であった<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|845208/42}} {{Cite book
|author = 小栗孝三郎
|date = 1900年
606行目:
|publisher = 海軍通覧発行所
|page = 58
}}]、[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|784515/56}} {{Cite book
|author = 内閣書記官室記録課編
|date = 1907年
612行目:
|publisher = 三省堂
|page = 58
}}]、[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|846886/16}} {{Cite book
|author = 帝国海事協会
|date = 明治38年
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明治36年12月5日の改訂では、鍛冶手が機関兵曹に<ref>明治36年勅令第269号。</ref>、鍛冶が機関兵に<ref>明治36年勅令第270号。</ref>、それぞれ統合された。また、海軍卒職名等級表中の機関兵・木工の順序が逆になった。[[日露戦争]](明治37年~38年)は、この頃である。
 
明治38年頃の松枝新一の解説によると、海兵団に初めて入団した者は一律に五等卒となるが、水兵・信号兵・機関兵・主厨は6か月、軍学生は10か月、木工は12か月の教程を終業して試験に及第すると、四等卒となる。その後、海上勤務4か月又は陸上勤務6か月以上続けて、進級試験に合格すると、四等卒よりも上級に進む。一等卒は海上勤務6か月又は陸上勤務8か月以上で、進級試験に合格すると、一等卒となれる<ref>[http://kindai.da.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|845122/65}} {{Cite book
|author = 松枝新一
|date = 1906年