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{{基礎情報 公家
'''多治比 三宅麻呂'''(たじひ の みやけまろ、[[生没年不詳]])は、[[飛鳥時代]]から[[奈良時代]]にかけての[[貴族]]。[[摂津職|摂津大夫]]・[[多治比古王]]の子。[[官位]]は[[正四位|正四位上]]・[[弁官|左大弁]]。▼
| 氏名 = 多治比 三宅麻呂
| 画像 = <!-- 画像ファイル名 -->
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[飛鳥時代]]後期 - [[奈良時代]]前期
| 生誕 = 不詳
| 死没 = 不詳
| 改名 =
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
| 戒名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[正四位|正四位上]]、[[弁官|左大弁]]
| 主君 = [[文武天皇]] → [[元明天皇|{{color|#FC4E6B|元明天皇}}]] → [[元正天皇|{{color|#FC4E6B|元正天皇}}]]
| 氏族 = [[多治比氏|多治比]]公 → [[多治比氏|多治比]][[真人]]
| 父母 = 父:[[多治比古王|多治比古王(丹比麻呂)]]、母:[[大伴比羅夫]]の娘
| 兄弟 = [[多治比嶋|嶋]]、'''三宅麻呂'''、[[多治比夜部|比夜部]]
| 妻 = 素性不詳
| 子 =
| 特記事項 =
}}
▲'''多治比 三宅麻呂'''(たじひ の みやけまろ、[[生没年不詳]])は、[[飛鳥時代]]後期から[[奈良時代]]前期にかけての[[貴族]]。[[摂津職|摂津大夫]]・[[多治比古王]]の子。[[官位]]は[[正四位|正四位上]]・[[弁官|左大弁]]。
__TOC__{{-}}
== 経歴 ==
[[東山道]][[巡察使]]を経て、[[慶雲]]元年([[704年]])[[従六位|従六位上]]から三階昇進して[[従五位|従五位下]]に[[叙爵]]。慶雲4年([[707年]])[[文武天皇]]の[[崩御]]に際して[[装束司|御装束司]]を務める。
[[元明天皇|元明]]朝では、[[鋳銭司|催鋳銭司]]・造雑物法用司が初めて設置されるとその官人に任ぜられる一方、[[和銅]]4年([[711年]])[[正五位|正五位上]]、和銅6年([[713年]])[[従四位|従四位下]]と順調に昇進し、元明朝末の和銅8年([[715年]])従四位上・[[弁官|左大弁]]に叙任される。
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[[元正天皇|元正]]朝でも、[[民部省|民部卿]]・[[河内国]][[按察使|摂官]]など歴任し、[[養老]]3年([[719年]])[[正四位|正四位下]]、養老5年([[721年]])正四位上(この年[[参議]]に任ぜられたか)と順調に昇進を続ける。しかし、養老6年([[722年]])[[謀反]]を誣告したとして[[斬首刑|斬刑]]に処せられることになったが、[[皇太子]]・首皇子(のち[[聖武天皇]])の奏請によって[[恩赦|減刑]]されて[[伊豆国]]への[[流罪]]となった<ref>『[[続日本紀]]』養老6年正月20日条</ref>。
一説では、[[神亀]]2年([[725年]])6月22日配所で[[崩御#卒去|卒去]]。[[享年]]73。<ref>『皇胤志』</ref>
== 官歴 ==
※ 注記のないものは『[[続日本紀]]』による。
* 時期不詳:[[従六位|従六位上]]
*[[大宝 (日本)|大宝]]3年([[703年]]) 正月2日:[[東山道]][[巡察使]]▼
* [[大宝
* 時期不詳:[[従五位|従五位上]]
*
* [[和銅
* 時期不詳:[[正五位|正五位下]]、[[弁官|左中弁]]<ref>『[[多胡碑]]』碑文による。</ref>。
▲*和銅4年([[711年]]) 4月7日:正五位上。
* 和銅
* 和銅
*
* [[
* [[養老
* 養老
* 養老6年([[722年]]) 正月20日:[[流罪]]により[[官位]]剥奪
== 系譜 ==
* 父:[[多治比古王]]
* 母:[[大伴比羅夫]]の娘
* 妻:素性不詳
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* [[宇治谷孟]]『続日本紀 (中)』([[講談社学術文庫]]、1995年(平成8年))
* [[宝賀寿男]]『古代氏族系譜集成』(古代氏族研究会、1986年(昭和62年))
== 関連項目 ==
* [[多胡碑]]
{{DEFAULTSORT:たしひ の みやけまろ}}
[[Category:飛鳥時代の人物]]
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