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== 坂本龍馬への尊敬 ==
土佐藩[[上士]]の谷は、同じ藩の[[郷士]]と呼ばれる下士出身者である[[坂本龍馬]]を厚く尊敬したとされる。また彼自身の伝聞では、慶応3年(1867年)に龍馬が暗殺されたときには、真っ先に現場に駆けつけ、瀕死の状態にあった[[中岡慎太郎]]から龍馬暗殺の経緯を聞きだし、生涯をかけて龍馬の暗殺犯を追ったという。谷は事件当初より、犯人は[[新選組]]と決めつけていたといわれ判断し、[[戊辰戦争]]の際には、流山で捕らえた新撰組局長であった[[近藤勇]]の尋問について、薩摩藩と殊更対立した。[[斬首刑|斬首]]・[[獄門]]という惨刑<ref>武士に対しては死罪の場合でも武士の名誉を重んじて切腹が一般的であり、斬首は例外的に行われたにすぎない。まして獄門、つまりさらし首に至っては江戸幕府でも行わなかった。</ref>に処したのも谷であるが、彼にとっては龍馬の敵討ちであった。
 
明治33年(1900年)、かつての[[見廻組]]の一人であった[[今井信郎]]が「龍馬を暗殺したのは俺だ」と言ったが、谷は、それを聞き及ぶと「お前ごとき売名の徒に坂本さんが斬られるものか」と逆に厳しく非難したという。
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| title = [[File:Hidari mitsudomoe.svg|25px]] 谷子爵家
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