「賀川豊彦」の版間の差分

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[[image:KAGAWA Toyohiko 1923 Great Kanto earthquake.JPG|thumb|250px|関東大震災、1923年]]
[[image:KAGAWA Toyohiko 1935.JPG|thumb|250px|1935年渡米]]
[[1921年]](大正10年)、神戸の三菱造船所(現・[[三菱重工業]][[三菱重工業神戸造船所|神戸造船所]])・[[川崎造船所]](現・[[川崎造船]]神戸工場)における大争議を指導するも、会社側の強硬な対応により敗北を喫し、これを契機に関西の労働運動において急進的な[[サンディカリスト]]の勢力が増していった。賀川はやがて農民運動に活躍の場を移すことになる。また、[[関東大震災]]の被災者救済をきっかけに本所基督教産業青年会を発足<ref>[http://homepage2.nifty.com/honjo-kagawakinenkan/gaiyou.html 法人の概要 本所賀川記念館の沿革]本所賀川記念館</ref>、貧民診療所などを経営した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/{{NDLDC|1920457/182}} 大野博士事件]『明治・大正・昭和歴史資料全集. 犯罪篇 下卷』有恒社、1932-1934</ref>。
 
[[1922年]](大正11年)、協力者・[[杉山元治郎]]とともに[[日本農民組合]]を設立し、本格的に農民運動に取り組んだ。組合は急速に発展し、3年後の[[1925年]](大正14年)末には組合員数は7万人を超えた。この間、[[1923年]](大正12年)に[[関東大震災]]罹災者救済活動を行う。また無産政党運動にも積極的に関与し、[[1926年]](大正15年)の[[労働農民党]]結成に当たっては執行委員に就任するが、同年末の左右分裂に際して党を脱退した。