「立憲養正會」の版間の差分

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[[大正]]12年([[1923年]])[[11月3日]]、[[日蓮]]信者で[[国体]]主義を標榜する田中智學によって創設された社会運動組織であり、在家仏教組織である[[国柱会]]や明治会の姉妹団体である。田中は明治36年(1903年)、日蓮を中心にして「日本國はまさしく宇内を靈的に統一すべき天職を有す」という意味の「[[八紘一宇]]」を『[[日本書紀]]』巻第三[[神武天皇]]即位前紀にある「上則答乾霊授国之徳、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而為宇、不亦可乎」(上は則ち乾霊の国を授けたまいし徳に答え、下は則ち皇孫の正を養うの心を弘め、然る後、六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩いて宇と為さん事、亦可からずや)から造語し、「[[国立戒壇]]」の建立を訴えた。「養正」の語もこの条から取られており、「養正の恢弘」という文化的行動が日本国民の使命であると訴えた。これらについては既に大正2年([[1913年]])3月11日に発行された国柱会の機関紙・国柱新聞の「神武天皇の建国」にて言及している。
 
[[1929年]]([[昭和]]4年)、智學の次男、[[田中澤二]]が総裁となると、[[政治団体]]色を強め、各種選挙に候補を擁立(田中は前年の[[第16回衆議院議員総選挙]]に東京1区から無所属で出馬し、落選していた)。[[衆議院]]の多数を制し、天皇の大命を拝し、合法的に「国体主義の政治を興立」することを目標とした。最盛期の会員数は約30万人([[1936年]]。[[1938年]]には公称130万を号した)。[[1936年]]の[[第19回衆議院議員総選挙|第19回総選挙]]では長野4区から立候補した[[田中耕]]ら同会公認候補7名を擁立した。結果は全員落選となり振るわなかったが、同年長野4区から立候補した[[田中耕]]が[[繰り上げ当選]]し、[[帝国議会]]に初めて議席を得た。[[1937年]]の[[第20回衆議院議員総選挙|第20回総選挙]]では[[田中耕]]が再選。また地方議会や[[農会]]には最盛期で100人を超す議員が所属するなど一定の政治勢力となった。しかし同会の党是である日蓮主義や[[国体]]主義は当時[[近衛文麿]]らによって主導されていた[[新体制運動]]とは思想的に相容れず、[[1940年]](昭和15年)に[[大政翼賛会]]が結成されてもこれに加わらなかった。新体制運動や大政翼賛会に対する批判を続けたため、ついに[[1942年]][[3月17日]][[結社]]不許可処分を受け、解散に追い込まれた。所属議員のこれによって田中耕は無所属となった。日蓮主義を政治に実現しようとすることは、田中総裁を絶対視することであり、軍部などが主張する[[国体]]を無視する思想であると見なされたためである。[[1942年]]の[[第21回衆議院議員総選挙|第21回総選挙(翼賛選挙]]には前職の田中耕を始め元会員37人が無所属で立候補したが、全員落選した。
 
[[第二次世界大戦]]敗北後、[[1946年]][[3月7日]]に再建。田中澤二は[[公職追放]]されたが、[[1947年]]の[[第23回衆議院議員総選挙|第23回総選挙]]で、[[福島県第3区 (中選挙区)|福島3区より[[齋藤晃]]が当選し1議席を獲得。'''戦前、戦後の両方で議席を獲得した経験のある唯一の党派'''である<ref>[[大日本帝国憲法]]施行下の[[衆議院]]と日本国憲法施行下の衆議院双方に[[国会議員]]を送り出した党は、他に[[日本自由党]]、[[日本社会党]]、[[日本共産党]]なども該当するが、全て1946年の[[第22回衆議院議員総選挙|第22回総選挙]](最後の帝国憲法下の総選挙)が初当選である。</ref>。[[日本国憲法]]施行後の[[1949年]]の[[第24回衆議院議員総選挙|第24回総選挙]]でも、[[北海道第1区 (中選挙区)|北海道1区で[[浦口鉄男]]が当選して1議席を獲得。浦口は、[[北方地域|北方領土]]は日本固有の領土であるのに、ロシア<!--国会会議録での表記-->([[ソビエト連邦|ソ連]])によって住民が追われたのはおかしいと[[国会]]で追及([[1950年]][[3月8日]]、[[外務委員会]])。また、[[破壊活動防止法]]には原案は棄権、修正可決された案には反対票を投じた。立憲養正會はその後も総選挙に候補を擁立したが、既成政党の再編が進むにつれ、議席獲得はできなくなった。[[自由民主党 (日本)|自民党]]・[[日本社会党|社会党]]による[[55年体制]]が成立すると、次第に選挙から遠ざかっていった。国政選挙への立候補も、[[1983年]]の[[第37回衆議院議員総選挙|第37回総選挙]]に中選挙区の東京11区より、[[小川力]]が立候補して以来途絶えている模様である。
 
[[1955年]]、田中澤二が死去し、[[1962年]]、[[菊地清太郎]]が会長となった。その後、小川力が会長となっている。