「ベン・ホーガン」の版間の差分

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[[1948年]]のみで、ホーガンはトーナメント10勝を稼いだ。しかし、翌[[1949年]][[2月2日]]、37歳0ヶ月で拳銃自殺した父チェスターの誕生日の64年0日後に、36歳5ヶ月のベンを悲劇が襲う。自動車を運転中、バスとの正面衝突により瀕死の重傷を負ったのである。骨盤の複雑骨折、鎖骨、左足のくるぶし、肋骨の各骨折に加え、身体各所に血栓ができ、彼は生涯にわたって循環器系を始めその他肉体的な制約を背負うことになる。当時の主治医は、競技ゴルフに参加することはもちろん、2度と歩くことすらできないのではとの診断を行った。
 
この[[1949年]]の事故の前には、ホーガンは当時のゴルフ界を支配する選手といっても過言ではなかったにもかかわらず、おせじにも観客たちの心を捉えて離さないような人気プレーヤーとはいえなかった。これは、おそらく彼がコース上で、どこか冷徹で、超然とした人柄に見えたせいである。しかし、交通事故の際、ホーガンは妻のバレリー(バル)を救うため、咄嗟に妻の膝の上に体を倒し、身を挺して守ったことが周知されると、ホーガンに対する評価は一変した<ref>「ベン・ホーガン 死の淵から蘇った男」カート・サンプソン(1998)、170頁</ref>。
 
[[1950年]]の[[ノーザン・トラスト・オープン|ロサンゼルス・オープン]]大会において、ホーガンが事故のわずか11ヶ月後にトーナメントに復活を果たし、しかもプレーオフで[[サム・スニード]]に敗れはしたものの第2位の成績を収めた。