「山本常朝」の版間の差分

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== 隠居と晩年 ==
同年5月16日、藩主の光茂が69歳の生涯を閉じるや、42歳のこの年まで30年以上「お家を我一人で荷なう」の心意気で側近として仕えた常朝は、追腹禁止により[[殉死]]もならず、願い出て出家した。5月19日に藩主の[[菩提寺]]たる[[曹洞宗]]高伝寺了意和尚より[[受戒]]、剃髮。そして名を旭山常朝と改めた。7月初旬佐賀城下の北10キロの山地来迎寺村(現在の佐賀市金立町)黒土原の庵室朝陽軒という草庵を結び、「尋ね入る<ruby><rb>法</rb><rp>(</rp><rt>のり</rt><rp>)</rp></ruby>の道芝つゆぬれてころも手すずし峰の松風」と詠じて隠棲した
 
田代陣基が、常朝を慕い尋ねてきたのはそれから10年後、[[宝永]]7年([[1710年]])3月5日のことである。『葉隠』の語りと筆記がはじまる。