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{{出典の明記|date=2015年8月}}
{{日本の内閣記事|とうじょうないかく|40|東條英機|[[1941年]](昭和16年)|10月18日|[[1944年]](昭和19年)|7月22日|[[大政翼賛会]]など。|[[第21回衆議院議員総選挙]](翼賛選挙)|(1942年(昭和17年)4月30日任期満了<ref group="注釈">前の[[第20回衆議院議員総選挙]]が行われたのは1937年(昭和12年)4月30日であったため、本来の任期は1941年(昭和16年)4月30日までであった。しかし、1年間任期延長したため、1942年(昭和17年)4月30日に任期満了を迎え、同日、[[第21回衆議院議員総選挙]]の投票が行われた。</ref>)|http://www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/40.html|[[陸軍大臣]]|画像=[[Image:Cabinet of Hideki Tojo 2.jpg|300px]]|画像説明=東條内閣の閣僚(1941年10月)}}
 
== 組閣 ==
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後継内閣には、近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、[[陸軍大将]]の[[東久邇宮稔彦王]]を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。[[昭和天皇]]は、陸海軍が平和の方針に一致するのであれば、という条件で東久邇宮首班を認める。しかし、[[木戸幸一]][[内大臣府|内大臣]]が東條に確認したところ、東條はあくまで新首相に下駄を預ける考えを示した。そのため木戸が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として東久邇宮首班に反対し、あらためて[[重臣会議]]に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお同時に東條は、中将昇進後最低5年を経なければならない陸軍大将に異例の昇進をしている。
 
東條は首相・[[陸軍大臣]]・[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]を兼ねて絶大な権力を一手に握り、「'''東條幕府'''」と揶揄された。組閣の大命を受けるにあたって[[昭和天皇]]から対米交渉の継続を示唆された<ref group="注釈">9月6日の[[御前会議]]で決定された[[帝国国策遂行要領]]では10月上旬頃までに対米交渉がまとまる見込みがなければアメリカに対して開戦することを規定していたが、昭和天皇はこれを白紙に戻して再検討することを命じた(白紙還元の御諚)。</ref>東條は、その意を体して交渉派の[[東郷茂徳]]を[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]に起用するなどしており、東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある<ref>[[森山優]] 『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』 第4章 p.100 新潮選書 2012年6月20日</ref>。陸相の兼摂は木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に行わせる意図による。
 
[[大日本帝国海軍|海軍]]は[[海軍大臣]]に[[豊田副武]]を推薦したが、豊田の反陸軍的な姿勢に懸念を示す東條が、天皇による陸海軍協力の命を盾にとって拒否した。軍からの軍部大臣の推薦が拒まれたのは異例なことであったが、海軍内で影響力が大きかった[[伏見宮博恭王]](元帥)も豊田の推薦には苦言を呈していたこともあり、海軍は折れて、[[及川古志郎|及川]]前海相が[[嶋田繁太郎]]を推薦しなおした。
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==脚注出典==
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== 注釈 ==
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== 外部リンク ==