「ハリー・サルツマン」の版間の差分
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映画版007シリーズは大成功を収めたが、シリーズが継続される中、比較的原作に忠実な映画化を目指すサルツマンは、娯楽に徹するブロッコリの製作志向に違和感を感じるようになる。そのような背景もあってか、彼は1965年、作家レン・デイトンが007とは対照的な主人公を設定して書き上げたスパイ小説『イプクレス・ファイル』の映画版製作も手がけている(マイケル・ケイン主演・邦題『国際諜報局』)。この作品は個性的なサスペンス作品として評価され、翌66年に『パーマーの危機脱出』、67年に『10億ドルの頭脳』と続編も製作した。
1969年、主にサルツマンの意向が反映された、映画版007シリーズ第6作『女王陛下の007』公開。しかしこの作品はそれまでの諸作より低調な興行収入に終わってしま
その後も007シリーズの出演者とは交流があった。その後は以前ほど目立った活動が出来ず、事業が失敗して多額の借金を背負うことになってしまう。製作を降りた『[[007 私を愛したスパイ]]』の撮影期間中の失意の時に、妻・ジャッキーが癌で亡くなり、以後は遺族によると意気消沈して抜け殻のようになってしまい、自身も体調を崩してしまったという。1981年、ハイアム・トポルの提案によりブロッコリは『[[007 ユア・アイズ・オンリー]]』のプレミア試写会にサルツマンは家族と招待された。そこでブロッコリとサルツマンは抱擁を交わし、一同からは拍手が起きた。2人が対立したのは仕事面であり、互いに悪感情はなかった。カビーはボンド映画で素晴らしい仕事をしているとサルツマンは述べている。シリーズの製作復帰も打診されたがサルツマンが断っている。その後は意欲を取り戻し、『ニジンスキー』製作後、映画劇場運営会社を立ち上げ、世界各国の映画に出資し、映画界に貢献した。[[カンヌ映画祭]]グランプリ候補となった『ジプシーのとき』もその一つ。大好きだったという演劇にも関わった。 晩年は[[フランス]]の[[ヴェルサイユ]]近郊に住んでいたが、1994年、[[ヌイイ=シュル=セーヌ]]のアメリカン・ホスピタルで心臓発作のため死去した<ref name="NYTimes"/>。78歳没。
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