「孟特穆」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
1行目:
{{脚注の不足|date=2012年2月|ソートキー=人1433年没}}
'''孟特穆'''(メンテム、モンティムール、[[満州語]]:{{mongol|ᡩᡠᡩᡠ ᠮᡝᠨᡨᡝᠮᡠ}},dudu mentemu)またの名をmentemu、漢語:'''猛哥帖木耳、孟哥帖木兒''' という。)は清朝(愛新覚羅氏)の遠い祖先とされる伝説上の人物。清朝では「肇祖」「原皇帝」と追号されている。
 
==概略==
清朝の所伝によると都督・孟特穆(dudu mentemu)と称し、乱を避けてオドリ・ヘチェン(鄂多里城から亡命したファンチャ(樊察[[:zh:凡察|凡察]])の子孫ということになっている。知略にとみ、祖先の仇討ちのために旧敵の子孫40数名をオドリ(鄂多里の西方1500里のヘトゥアラ(赫圖阿拉[[奉天省]][[興京]]老城)に誘い、半分を殺し半分は人質とした。さらに捕らえられていた同族の釈放を要求して、部族を率いて旧領を回復し赫圖阿拉ヘトゥアラに居住するようになったという。
 
これらの伝説のもとになったのは明朝や朝鮮の記録に見える女真族の孟哥帖木兒と推測される。イラン・トゥメン(Ilan tumen、移蘭豆漫(ilan tumen)の一部である斡朶里(オドリ(Odoli、鄂多理、斡朶里)の城主であり、洪武24年([[1391年]])頃に斡木河(現在の[[会寧市]])に入り、永楽4年([[1406年]])頃に[[建州]]左衛指揮に任命された。朝鮮の記録では彼の一族は「童氏」として知られ、清朝の記録では「佟氏」である。
 
朝鮮の記録は『満州実録(Manju i yalgiyan kooli)』などの記載と矛盾し、例えば孟特穆の祖先であるはずの凡察ファンチャは実の弟で、孟特穆が敵に殺された時に危うく逃げ延びたと伝える。漢学者の[[中島竦]]は、斡朶里オドリの女真人は朝鮮に当時の記録が残され、そうした記録がない満州人の伝より信頼が置けると考えた<ref>{{Cite book|和書|author=中島竦|year=1918|title=清朝史談|publisher=善隣書院|pages=P.46-52}}</ref>。
 
==参考文献==