「オーストリア帝国」の版間の差分

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[[17世紀]]初頭から続いた[[三十年戦争]]を経て成立した[[ヴェストファーレン体制]]を端緒とし、さらに[[18世紀]]の[[オーストリア継承戦争]]や[[七年戦争]]などによる、政体としての神聖ローマ帝国の形骸化は誰の目にも明らかであった。さらに[[フランス革命]]を受けた[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]][[フランス第一帝政|帝国]]の出現で、中世以来の神聖ローマ帝国は名実ともに消滅した。ハプスブルク家は、事実上の国家を形成していた中東欧に広がるオーストリア大公国の支配領域([[ハプスブルク君主国]])をもってオーストリア帝国を形成、帝室の勢力圏を再編成した。
 
この時期の前半は[[ナポレオン戦争]]とその後の[[クレメンス・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]時代であり、後半は[[1848年]]「諸国民の[[]]」による[[ウィーン体制]]崩壊後の[[フランツ・ヨーゼフ1世]]時代前半である。この時代はドイツ近代国家の模索期で、「オーストリア皇帝を戴く[[大ドイツ主義]]」か、「[[プロイセン王国|プロイセン王]]を戴く[[小ドイツ主義]]」かで揺れ動いていたが、[[1866年]]の[[普墺戦争]]により大ドイツ派のオーストリアは完敗し、最終的には統一ドイツから除外される。また[[1848年革命]]に代表される非ドイツ民族の不満を収拾するため、ドイツ民族に次ぐ大勢力であったハンガリー系([[マジャル人]])に大幅な譲歩を認め([[アウスグライヒ]])、[[1867年]]に[[オーストリア=ハンガリー帝国]](二重帝国)が発足した。
 
== 領域 ==