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[[明道 (北宋)|明道]]2年([[1033年]])、尚美人が仁宗の御前において、皇后の言葉を遮って話すという無礼を犯した。怒った郭皇后が尚美人の頬を叩こうとしたところ、止めに入った仁宗の顔を誤って叩いてしまい、また皇后の爪が仁宗の頬を傷つけた。激怒した仁宗は郭皇后を浄妃に降格した。尚美人は得意のあまり、しばしば朝政に干渉し、楊美人と仁宗を誘って酒色に溺れた。[[章恵皇后|楊太后]]に諫められ、仁宗は尚美人とも楊美人とも疎遠になった。[[景祐]]元年([[1034年]])、郭妃は瑤華宮に移り、尚美人も廃されて洞真宮で道姑として出家、楊美人も別宅に置かれることとなった。同年、[[慈聖光献曹皇后|曹氏]]が皇后として冊立された。
 
しかし後年、仁宗曹皇后と夫婦仲が悪くなると、楊氏は尚氏とともに皇宮に召され、美人に復された。女子を1人産んだが、夭折した。[[皇祐]]2年7月2日(1050年7月29日)、尚美人は薨去し充儀を贈られ、楊美人も正三品[[婕妤]]に上った。
 
[[英宗 (宋)|英宗]]の[[嘉祐]]8年([[1063年]])3月、修儀(正二品嬪)の位に進んだ。[[熙寧]]5年12月(1073年)薨去し、徳妃の位を贈られた。