「土曜日の夜の虐殺」の版間の差分

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[[画像:Robert Bork.jpg|thumb|ロバート・ボーク。司法長官代理としてコックス解任に踏み切る。]]
 
'''土曜日の夜の虐殺'''([[英語|英]] Saturday Night Massacre)は、[[ウォーターゲート事件]]渦中であった[[1973年]][[10月20日]]の夜、[[アメリカ合衆国大統領|アメリカ大統領]][[リチャード・ニクソン]]が同事件の{{仮リンク|特別検察官|en|Special prosecutor}}だった[[アーチボルド・コックス]]を解任し、その過程において[[アメリカ合衆国司法長官|司法長官]][[エリオット・リチャードソン|エリオット・L・リチャードソン]]と{{仮リンク|司法副長官|en|United States Deputy Attorney General}}{{仮リンク|ウィリアム・D・ラッケルズハウス|en|William Ruckelshaus}}の2人を辞職に追い込んだ出来事で当時のアメリカ国民に衝撃を与えた
 
あるいは'''土曜の夜の大虐殺'''及び'''土曜夜の大虐殺'''とも言われる。
 
== 概要 ==
ウォーターゲート事件を調査するために1972ニクソン大統領が設置して、1973年6月17日指名されにリチャードソン司法長官が任命したコックス特別検察官は、事件の証拠として上院特別調査委員会で大統領執務室の中で行われた会話を極秘に録音したテープの提出を求め存在が明らかになったことでニクソン大統領へ7月18日に事件召喚状を出証拠とた。ニクソンは当初、大統領特権を盾にこ執務室の中で行わを拒絶していが、1973年10月19日には、会話の録音テープ8本調査と要約を自身が尊敬する議員の1人であり、野党・民主党の重鎮でもある[[ジョン・C・ステニス]][[アメリカ合衆国上院|上院]]議員が行った上で特別検察官事務所に提出する代わりに、自身の召還取り消すようコックスに要請した([[ステニス妥協案]])。しかし同日夜、コックスは妥協案を拒否し求めた。
 
しかしホワイトハウスはテープの提出を拒否したため、特別検察官は連邦地裁に持ち込み、8月29日にワシントン連邦地裁のシリカ判事は特別検察官の訴えを認めて大統領にテープの提出を命じ、ニクソンは大統領特権を盾にこれを拒絶した。その後10月12日に連邦高裁での控訴審でもシリカ判事の決定を支持したので、10月19日に録音テープについてニクソンが個人的に尊敬する議員の1人であり、野党・民主党の重鎮でもある[[ジョン・C・ステニス]][[アメリカ合衆国上院|上院]]議員が聞き取りをしてその調査報告を行い、その上で特別検察官事務所に提出する代わりに、提出命令を取り消すようコックスに要請した。これを([[ステニス妥協案]])という。しかし同日夜、コックスは妥協案を拒否した。
妥協案を拒否されたニクソンは、週末に入り、連邦政府機関が休みであったにも関わらず、翌日の晩(土曜日の夜)からコックス解任のために行動を起こす。
 
翌日の10月20日(土)の記者会見でコックスはあくまで録音テープの提出を求めることを明らかにして、妥協案を拒否されたニクソンは、週末に入り、この日連邦政府機関が休みであったにも関わらず、翌日の晩(土曜日の夜)コックス解任のために行動を起こした
まず彼はリチャードソン司法長官に圧力をかけ、コックスを特別検察官から解任するよう求めた。リチャードソンはこれを拒否し、抗議して辞職をした。ニクソンは次にラッケルズハウス司法副長官に同じ要求をするが、彼もこれを拒み、ニクソンによって辞職させられる。
 
まず彼は任命したリチャードソン司法長官に圧力をかけ、コックスを特別検察官から解任するよう求めたが、リチャードソンはこれを拒否し抗議して辞職をした。ニクソンは次にラッケルズハウス司法副長官に同じ要求をするが、彼もこれを拒み、ニクソンによって辞職させられる。
 
さらにニクソンは[[アメリカ合衆国訟務長官|訟務長官]]であった[[ロバート・ボーク|ロバート・H・ボーク]]を司法長官代理(リチャードソン辞職に伴い)に任命し、コックスを解任するよう命じた。上述のリチャードソンとラッケルズハウスは両人とも、上院司法委員会の任命公聴会で特別検察官の職に干渉しないという宣誓証言をしていたが、ボークは委員会へそのような宣誓をしていないこともあり、命令に従ってコックスを解任した。
 
その後ニクソンは[[連邦捜査局|FBI]]を動員し、特別検察官、司法長官、司法副長官の執務室を封鎖させ(事件の書類も差し押さえられた)、特別連邦検察局を廃止し、事件の調査に関する全ての権限を司法省に移すと発表した。その様子はテレビで放送され、国民に「警察国家の再来」「犯罪容疑者が権力で事件をもみ消している」と受け取られたため、抗議の電報・電話がホワイトハウスに数万通押し寄せた(各議員の事務所にも殺到した)。この間の同年10月には、ニクソンとコックスの間に立ったステニスが[[ワシントンD.C.]]の自宅で銃撃され、重傷を負うという事件も起きた。
[[アメリカ合衆国議会|連邦議会]]もニクソンの行為を大統領の権力の濫用と非難し、ニクソンに対する多数の[[弾劾]]法案が議会に提出される事態に至る。
 
ニクソンは、1973年11月17日の有名な記者会見で自身の行為を次のように弁明している。
 
{{Cquote|私は公職に就いている間、司法妨害を行ったことなど一度もありません。また、私は公職にある身としてこの種の調査を歓迎します。なぜならアメリカ国民は自分達の大統領がペテン師であるのかどうかを知るべきであるからです。そして、'''私はペテン師ではありません!'''''(I am not a crook.)''}}
 
==事件の影響==
この「土曜日の夜の虐殺」が起こした波紋は大きく、行政の最高責任者が司法と立法を蔑ろにして、法律的にも道徳的にも大統領は威信を失った。丁度この時にアグニュー副大統領が州知事時代の収賄容疑で副大統領を辞任して、10月12日に当時下院院内総務であったジェラルド・R・フォードがニクソンから副大統領の指名を受けたところであった。この後に議会の承認を得て後任として正式に副大統領に就任してから、ニクソン大統領の弾劾の動きが加速していった。
この「土曜日の夜の虐殺」がきっかけとなり、1978年には{{仮リンク|特別検察官|en|United States Office of the Independent Counsel}}設置法([[ワシントンD.C.]]巡回区[[連邦巡回区控訴裁判所|連邦控訴裁判所]]が任命する独立機関の設置を定める法)が可決・制定された。
 
このまた「土曜日の夜の虐殺」がきっかけとなり、1978年には{{仮リンク|特別検察官|en|United States Office of the Independent Counsel}}設置法([[ワシントンD.C.]]巡回区[[連邦巡回区控訴裁判所|連邦控訴裁判所]]が任命する独立機関の設置を定める法)が可決・制定された。
 
同法に基づいて[[ビル・クリントン]]大統領に対する{{仮リンク|ホワイトウォーター事件|en|Whitewater controversy}}の捜査では、[[ジャネット・リノ]]司法長官によって[[ケネス・スター]]特別検察官が任命された。しかし、特別検察官の捜査が行き過ぎと言う批判が起きたばかりか時に政争の具にされる(スター自身は共和党と繋がりの深い弁護士だった)と言う結果を生み、1999年に廃止されている。