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{{Infobox 人物
|氏名=アグネス・フォン・マンスフェルト
|画像=AgnesvonMansfeld.jpg
|画像サイズ= 200px
|画像説明=アグネス・フォン・マンスフェルト
|配偶者=ゲプハルト1世・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルク
|生年月日=1551年
|生誕地=[[マンスフェルト]]
|没年月日=1637年
|死没地=[[ヴュルテンベルク]]
|墓地={{Illm|ヘレン=ズルツバッハ|de|Herren-Sulzbach|label=ズルツバッハ}}
|別名=マンスフェルトの麗人 (Die schöne Mansfelderin)
}}
'''アグネス・フォン・マンスフェルト
{{Illm|ゲレスハイム|de|Gerresheim}}の修道院(現在の[[デュッセルドルフ]]の一部)のプロテスタントの女性[[律修司祭]]として
意中の女性と結婚するために、ゲプハルト1世は[[カルヴァン主義]]に改宗し、そ
1583年2月2日、戦争の混乱の最中にアグネス・フォン・マンスフェルトとゲプハルト1世・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルクは[[ボン]]で結婚
1589年、
1601年にゲプハルトは
▲1589年、彼らは[[ストラスブール]]に定住した。伝説によると、1585年にアグネスは[[エリザベス1世]]に支援を求めるために[[イングランド王国|イングランド]]に旅行したとされるが、これはイギリスの学者によって否定されている。<ref name="tenison128" />
アグネスは1637年に死去するまで
▲1601年にゲプハルトはストラスブールで死亡したが、カトリックは亡くなった夫も非難した-戦争は既に終結しているのに-マンスフェルトの麗人は明らかにまだ赦されていなかった。 彼は遺言で、ゲプハルトが信頼していた公爵の[[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク公)]]の子孫に年金を支払い、彼の未亡人が世話と保護を受けられるように託した。
▲1637年に死までアグネスはヴュルテンベルク公爵の保護の下でヴュルテンベルク州に住んでいた。彼女はズルツバッハに埋葬された。<ref name="wuensch" />
▲アグネス・フォン・マンスフェルト・アイスレーベンの生涯とゲプハルトとの関係は、後の時代にさまざまな物語や小説の題材にされ、現在も歴史研究の対象である。(文献リストを参照)
==文献リスト ==
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