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{{改名提案|アグネス・フォン・マンスフェルト=アイスレーベン|date=2015年8月}}
{{Infobox 人物
|氏名=アグネス・フォン・マンスフェルトアイスレーベン
|画像=AgnesvonMansfeld.jpg
|画像サイズ= 200px
|画像説明=アグネス・フォン・マンスフェルトアイスレーベンの肖像画
|配偶者=ゲプハルト1世・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルク
|生年月日=1551年
|生誕地=[[マンスフェルト]]
|没年月日=1637年
|死没地=[[ヴュルテンベルク]]
|墓地={{Illm|ヘレン=ズルツバッハ|de|Herren-Sulzbach|label=ズルツバッハ}}
|別名=マンスフェルトの麗人 (Die schöne Mansfelderin)
}}
'''アグネス・フォン・マンスフェルトアイスレーベン''' ({{lang-de|Agnes von Mansfeld-Eisleben }}, 1551 - 1637)は{{Illm|マンスフェルト家|de|Mansfeld (Adelsgeschlecht)|label=マンスフェルトの伯爵}}で、ヨハン(ハンス)・ゲオルク1世・フォン・マンスフェルト=アイスレーベンとカタリーナ・フォン・マンスフェルト=ヒンターオルトの娘である。また、マンスフェルトの麗人とも呼ばれた。的な資料によれば彼女は深い茶色の目をした黒髪の麗人と記述されている<ref name="mueller" />彼女への愛のために[[ケルン]][[大司教]]{{Illm|ゲプハルト1世・フォン・ヴァルトブルク|de|Gebhard I. von Waldburg|en|Gebhard Truchsess von Waldburg}}が[[プロテスタント]]に改宗し、そのために{{illm|トルフゼス戦争|de|Truchsessischer Krieg|en|Cologne War}}(ケルン戦争としても知られる)が起こった。
 
{{Illm|ゲレスハイム|de|Gerresheim}}の修道院(現在の[[デュッセルドルフ]]の一部)のプロテスタントの女性[[律修司祭]]としてゲレスハイム(現在の、また[[デュッセルドルフ]]郊外)およびの{{illm|エッセン修道院で開催された|de|Stift Essen|label=修道院}}から教議に赴い禄を受ける身であったアグネス・フォン・マンスフェルトアイスレーベンはカトリックの大司教でケルンの[[選帝侯]]であるゲプハルト1世・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルクに注目さ見初められ逢瀬を始めた。アグネスの兄弟達は脅すなどして会う事をやめさせようとしたが、失敗に終わった。
 
意中の女性と結婚するために、ゲプハルト1世は[[カルヴァン主義]]に改宗し、そ故に彼は大司教の立場地位を失った。しかしそれでもがら、彼は選帝侯としての支配続けようとしかっので彼は敵にカトリックの資産教会身分の人々敵に回し、[[グレゴリウス13世 (ローマ教皇)|教皇グレゴリウス13世]]から「[[背教#背教者|背教者]]」として[[破門#キリスト教|破門]]された。ゲプハルトと敵対勢力との間の紛争は、いわゆるケルン戦争{{illm|トルフゼス戦争|de|Truchsessischer Krieg|en|Cologne War|label=ケルン戦争}}そのに達した。
 
1583年2月2日、戦争の混乱の最中にアグネス・フォン・マンスフェルトとゲプハルト1世・トルフゼス・フォン・ヴァルトブルクは[[ボン]]で結婚し、すぐに逃亡したが、彼らの避難先の{{illm|ゴーデスルク|de|Godesburg}}が{{illm|フェルディナント・フォン・バイエルン (1550–1608)|de|Ferdinand von Bayern (1550–1608)|label=フェルディナント・フォン・バイエルン}}によって征服されると、すぐに逃避行に出る他なかった。これにより、うしてアグネスと夫はドイツ全体を何年も放浪する事になる。
1589年、彼ら2人は[[シュトラスブ]]に居を住した。伝説によると、1585年にアグネスは[[エリザベス1世]]に支援を求めるために[[イングランド王国|イングランド]]に旅行し赴いたとされるが、これはイギリスの学者によって否定されている<ref name="tenison128" />
 
1601年にゲプハルトはシュトラスブで死亡したが、亡き夫の敵カトリックは亡くなった夫も非難した-戦争は既に終結しているのに-たところで、マンスフェルトの麗人には赦しを与えないのは明らかにま赦されていなかった。 彼は遺言で、ゲプハルトが信頼していた公爵のは遺言で、[[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク公)|ヴュルテンベルク公フリードリヒ1世]]にこれまで子孫善意年金対し財産支払い遺贈するとした上で彼の未亡人が世話のアグネスの扶養と保護を受けられるように託した。
1589年、彼らは[[ストラスブール]]に定住した。伝説によると、1585年にアグネスは[[エリザベス1世]]に支援を求めるために[[イングランド王国|イングランド]]に旅行したとされるが、これはイギリスの学者によって否定されている。<ref name="tenison128" />
 
アグネスは1637年に死去するまでアグネスは[[ヴュルテンベルク公]]護の下で[[ヴュルテンベルク]]住んでいた。彼女は暮らし、{{Illm|ヘレン=ズルツバッハ|de|Herren-Sulzbach|label=ズルツバッハ}}に埋葬された<ref name="wuensch" />
1601年にゲプハルトはストラスブールで死亡したが、カトリックは亡くなった夫も非難した-戦争は既に終結しているのに-マンスフェルトの麗人は明らかにまだ赦されていなかった。 彼は遺言で、ゲプハルトが信頼していた公爵の[[フリードリヒ1世 (ヴュルテンベルク公)]]の子孫に年金を支払い、彼の未亡人が世話と保護を受けられるように託した。
 
アグネス・フォン・マンスフェルトアイスレーベンの生涯とゲプハルトとの関係は、後の時代にさまざまな物語や小説の題材にされ、現在も歴史研究の対象である。(文献リストを参照)
1637年に死までアグネスはヴュルテンベルク公爵の保護の下でヴュルテンベルク州に住んでいた。彼女はズルツバッハに埋葬された。<ref name="wuensch" />
 
アグネス・フォン・マンスフェルト・アイスレーベンの生涯とゲプハルトとの関係は、後の時代にさまざまな物語や小説の題材にされ、現在も歴史研究の対象である。(文献リストを参照)
 
==文献リスト ==