メインメニューを開く

差分

出典および参考文献を追加
[[長征]]が始まる直前の[[1933年]]3月、[[毛沢東]]の命により当時の中国共産党の拠点だった[[江西省]][[瑞金市]]で創始された。当時は『マルクス共産主義学校』と呼称し、長征途中の[[1935年]]に『中央党校』に改称された。その後、長征の終着地である[[陝西省]][[延安市]]に長く置かれていたが、[[日中戦争]]終結後、[[国共内戦]]中の1947年、延安の学校を閉校。共産党が北平(現・[[北京市]])を奪った後の[[1949年]]、[[北京]]に落ち着いた。{{see also|中華民国の歴史#国共内戦}}
 
1960年代から70年代にかけては[[文化大革命]]の一環で中央党校は活動休止に追い込まれるが、1976年9月に毛沢東が死亡し文化大革命が終結した翌年の[[1977年]]に復活した。当時の中央宣伝部長でもあった[[胡耀邦]]が副校長に就任すると、理論研究室を設立して阮銘、呉江、孫長江らブレーンに内部雑誌『理論動態』の中で様々な改革理論を提起させ、党内の思想解放を促した<ref name="tabata58">田畑(1995年)58ページ</ref>。その中でも、「真理の追究」は先に出された[[鄧小平]]の『実事求是』論と呼応して毛沢東無謬論を盾に改革を妨害する華国鋒ら[[二つのすべて|すべて派]]を批判し<ref name="tabata58"/>、翌1978年8月に行われた[[中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議|第11期3中全会]]での政策転換に貢献した<ref name="tabata58"/>。さらに1980年には、[[中国共産党第十一期中央委員会第五回全体会議|5中全会]]で胡耀邦が[[中国共産党中央書記処|中央書記処]]総書記に就任した<ref name="tabata58"/>。{{main|中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議#3中全会の決定事項|胡耀邦#「実権派」}}{{see also|文化大革命#終結}}
 
[[1982年]]6月、胡耀邦が総書記職に専念するため、[[鄧力群]]の推薦で保守派長老の[[王震]]が後任に就いたが、保守派のトップである[[陳雲]]から「[[黄埔軍官学校]]のような組織にしてほしい」と指示を受けており、校長の権限で阮銘を党籍剥奪、呉江、孫長江を異動させるなど党校内部の改革派が一掃された。
== 参考文献 ==
* 稲垣清著『中南海 知られざる中国の中枢』(2015年)岩波新書
* 田畑光永著『鄧小平の遺産―離心・流動の中国―』(1995年)岩波新書
 
==関連項目==
1,984

回編集