「倒幕運動」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎土佐藩: 尊王討幕を倒幕とした。∵尊王討幕には武力的な意味が強い。大政奉還には武力衝突を避ける狙いがある。山内容堂も親徳川的な面がある。
Doom2111 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
8行目:
江戸時代には日本の古典研究などを行う[[国学]]が発達し、外国船の来航が多発し、アメリカの[[マシュー・ペリー]]やロシアの[[プチャーチン]]らが来航して通商を求めると、幕府は条約締結に際して朝廷の勅許を求めたため、[[天皇]]、朝廷の伝統的権威が復興する。
 
幕府が諸外国と通商条約を締結して[[開国]]を行うと、在野の志士(活動家)たちは、[[水戸学]]の思想的影響のもと、名分論に基づき攘夷を断行しない幕府に対する倒幕論が形成された。幕府は朝廷権威に接近して権力の再構築を図る公武合体政策を行うが、公家の[[岩倉具視]]や、[[薩摩藩]]の[[西郷隆盛]](吉之助)、[[大久保利通]]、[[小松清廉]]、長州藩の桂小五郎([[木戸孝允]])、[[広沢真臣]]、[[土佐藩]]の[[武市瑞山]]、[[吉村寅太郎]]などの尊皇攘夷派らは、王政復古、武力討幕路線を構想する。
 
尊皇攘夷派として活動していた長州藩であったが、[[会津藩]]と[[薩摩藩]]による[[八月十八日の政変]]で京都を追放され、[[朝敵]]として幕府から征討軍を向けられると([[第一次長州征伐]])、佐幕派である[[俗論派]]が藩政を握り、倒幕運動は一時下火となった。しかし、[[高杉晋作]]などの[[正義派]]が俗論派を打倒して倒幕路線に戻る。さらに、再び差し向けられた征討軍を撃退したことで([[第二次長州征伐]])、幕府の権威を低下させることに成功した。
長州藩は没落して[[朝敵]]となるが、攘夷派であった[[孝明天皇]]の崩御、[[薩長同盟]]で薩摩と長州が密約を結ぶと、15代将軍の[[徳川慶喜]]は[[大政奉還]]を行い公議政体構築を目指すが、[[王政復古 (日本)|王政復古のクーデター]]により明治政府が成立、[[鳥羽・伏見の戦い]]で旧幕府軍が敗北し、徳川慶喜に対する追討令が出ると、法的には幕府機構は消滅しているものの武力討幕運動が盛んになる。
 
[[寺田屋事件]]で尊皇派を粛清した薩摩藩は、佐幕派として公武合体を進めており長州藩と対立、[[天誅組の乱]]や[[禁門の変]]を鎮圧するなどしていた。しかし、幕政改革における方針の違いから幕府との対立が始まると、長州藩と密かに和解して[[薩長同盟]]を結んだ。そして慶応3年5月から行われた[[四侯会議]]が失敗に終わると、幕府に見切りをつけて武力倒幕路線となった。以後、公家の岩倉具視などと協力して、朝廷における幕府の影響力の排除、および長州藩の復権に務める。
 
これら倒幕派の動きに対して、15代将軍である[[徳川慶喜]]は、慶応3年10月14日に[[大政奉還]]を行った。これにより[[江戸幕府]]は消滅。そして[[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]が発令して[[明治政府]]が成立した。倒すべき江戸幕府が消滅したため、倒幕運動は名目上は終わったが、[[徳川氏]]を支える勢力は残っており、徳川を除いた政権を目指す倒幕派との対立は続いた。そして[[鳥羽・伏見の戦い]]により[[戊辰戦争]]が勃発。戦いの末に旧幕府軍は敗北、徳川慶喜は[[朝敵]]となり、[[大阪城]]から[[江戸]]に戻った慶喜は明治政府に恭順して[[江戸開城]]を行なった。江戸城は明治政府に接収され[[徳川家康]]以来の政治機構は完全に消滅した。
 
[[徳川氏]]の本拠地であった[[江戸城]]が無血開城したことにより、倒幕運動は終わりを迎えた。一部の佐幕派は、[[奥羽越列藩同盟|東北諸藩]]と共に抗戦を続けたが、新政府軍に敗北して降伏した。
 
==倒幕への経過==