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[[Image:Bateson2.jpg|thumb|200px|right|ウィリアム・ベイトソン]]
 
'''ウィリアム・ベイトソン<ref>実際の発音はベイツンに近い。</ref>'''('''William Bateson''', [[1861年]][[8月8日]] - [[1926年]][[2月8日]])は[[イギリス]]の[[遺伝学者]]。[[メンデルの法則]]を[[英語圏]]の研究者に紹介し、その普及の先頭に立った人物である。英語で[[遺伝学]]を意味する "genetics" という語を考案したことでも有名。
 
人類学者[[グレゴリー・ベイトソン]]は彼の息子である<ref>「グレゴリー」は[[グレゴール・ヨハン・メンデル]]の名前からとっている。</ref>。ウィリアムのいとこの孫、[[パトリック・ベイトソン]]は[[進化生物学|進化生物学者]]。
 
==来歴==
1861年に[[イングランド]]の[[ウィットビー]]に生まれる。[[ラグビー校]]から1878年に[[ケンブリッジ大学]][[セント・ジョンズ・カレッジ (ケンブリッジ大学)|セント・ジョンズ・カレッジ]]に入学する。大学在籍中に[[中央アジア]][[ステップ (植生)|ステップ地域]]を旅行し、環境が生物の形質にどのように影響するのかを調査した。
 
1894年にその調査をもとに"''Materials for the study of variation''"を著し、種の変異の不連続性を主張し、自然淘汰による漸進的な進化を主張するダーウィンの[[自然選択説]]に反対の立場をとった。<ref>ベイトソンの立場はド・フリースの[[突然変異説]]に近い。</ref> また、彼は[[ハチ]]の[[触角]]が肢に変化した例や[[イセエビ]]の眼が触角に変化した例などをあげており、体構造の一部が類似の構造に転換するそれらの現象を「[[ホメオシス|ホメオーシス]]」と名づけた。これは1970年代に[[ホメオボックス]]として復活し、分子遺伝学の分野で研究されている。
 
1900年に[[オランダ]]の[[ユーゴー・ド・フリース]]の[[論文]]とメンデルの論文を読んだベイトソンは「メンデルの法則」の重要性を悟り、1902年にメンデルの論文を英語に翻訳し、以後メンデルの法則の強力な弁護者となった。そのため英語圏ではド・フリースをはじめとする三人の再発見者よりも「再発見者」として有名である。
 
ベイトソンは今日でも使用されている遺伝に関する様々な[[造語]]をつくったことでも知られている。そのなかでも特に有名な「''genetics''<ref>ギリシア語の''&#947;&#949;&#957;&#957;&#974;''から</ref>」は[[アダム・セジウィック]]への1905年4月18日付の私信で最初に使用されている。"allelomorphs" (短縮されて''allele''、[[対立遺伝子]])、 "zygote"([[接合子]])、 "heterozygote"([[ヘテロ接合型]])、"homozygote"([[ホモ接合型]])なども彼の造語である。また"gene"([[遺伝子]])という言葉も[[ウィルヘルム・ヨハンセン]]が1909年に提唱する3年前、1906年の第3回国際遺伝学会議で使用していた。
 
1908年、ケンブリッジ大学の遺伝学教授に就任。1910年に[[レジナルド・パネット]]とともに[[遺伝的連鎖]]を発見。同年、パネットとともに"''The Journal of Genetics''"を創刊した。
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[[Category:イギリスの遺伝学者]]
[[Category:ケンブリッジ大学の教員]]
[[Category:ノース・ヨークシャー出身の人物]]
[[Category:1861年生]]
[[Category:1926年没]]