「グレゴール・ヨハン・メンデル」の版間の差分

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ミラー海神 (会話 | 投稿記録)
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この結果は口頭での発表は[[1865年]]に[[ブリュン自然協会]]で、論文発表は[[1866年]]に『ブリュン自然科学会誌』で行われた。タイトルは「Versuche über Pflanzen-Hybriden」(=植物雑種に関する実験)であった。<!-- 註:英語などのラテン文字を使う記事では、書名などはイタリック体であるが、日本語では、「地の文」との区別が自明的に行われているので不要。またイタリック体にすると、読みづらくなる。-->さらにメンデルは当時の細胞学の権威[[カール・ネーゲリ]]に論文の別刷りを送ったが、数学的で抽象的な解釈が理解されなかった。メンデルの考えは、「反生物的」と見られてしまった。ネーゲルから、ネーゲルの研究していた[[ミヤマコウゾリナ]]による実験を勧められ、研究を始めたがこの植物の形質の要素は純系でなく結果は複雑で法則性があらわれなかったことなどから交配実験から遠ざかることになった。
 
1868年に修道院長に就任し多忙な職務をこなしたが、1870年ごろには交配の研究をやめていた。気象の分野の観測や、井戸の水位や太陽の黒点の観測を続け、気象との関係も研究した。没した時点では気象学者としての評価が高かった<ref>『[[天才たちの科学史]][[]]、[[平凡社新書]](2011年)</ref>。
 
== 研究成果の承認 ==