「江戸開城」の版間の差分

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その一方で、無血開城という事実が一人歩きし、内外に戊辰戦争全体が最低限の流血で乗り越えられたといういわば虚像をも産むことになる。しかし江戸開城自体は、戊辰戦争史全体の中では序盤に位置する事件であり、それ以後の[[北越戦争|長岡]]・[[会津戦争|会津]]・箱館まで続く一連の内戦は、むしろこれ以降いっそう激化していったのであり、決して内戦の流血自体が少なく済んだわけではない。江戸城という精神的支柱を失った幕臣たちの中にも、榎本の艦隊とともに北上し、戊辰戦争を戦い続ける者たちも少なくなかった。
 
[[江戸城]]が無傷で開城したことは半ば予想されたこととはいえ、新政府の主要士族たちにとっては拍子抜けでもあった。なぜなら、政府内において親徳川派であった[[松平春嶽]]などの列侯会議派が常に政府の主導権の巻き返しを図ろうとしていたうえ、にわか仕立ての新政府軍は、事実上、諸藩による緩やかな連合体に過ぎず、その結束を高めるためには強力な敵を打倒するという目的を必要としていたからである。そこで諸藩の団結強化のため、江戸城に代わる敵として想定されたのが、先の降伏条件でも問罪の対象として名指しされた[[松平容保]]の[[会津藩]](および弟の[[松平定敬]])であり、開戦前に江戸の薩摩藩邸を焼き討ちにした[[庄内藩]]、また去就を明らかにしていなかった東北諸藩であった。佐幕派の重鎮であった[[会津藩]]は、藩主の松平容保が恭順を示していたものの、藩内は主戦論が支配的であり[[武装解除]]や開城も拒否していたことから、新政府会津の恭順姿勢を信用していなかった。抗戦派を排除してまで恭順を示した[[徳川慶喜]]には、それほど強硬な処分を求めなかった[[木戸孝允]]も、会津藩を討伐しなくては新政府は成り立たないと[[大久保利通]]に述べており<ref>『大久保利通文書』二巻 慶応四年四月二十九日付 大久保利通宛木戸書翰「大分会賊も横行仕候由、先々是ニ而寂寥を相助け申候。今日天下之有様を想察仕候に、一乱暴仕候もの無御座而ハ、却而朝廷今日之御為ニ相成不申候」。</ref>、大久保も賛同している<ref>大久保はさらに、この期に及んでなお宥和論をとる越前藩にすら疑心暗鬼を懐いていた。『大久保利通文書』二巻 慶応四年閏四月二日付 木戸孝允宛大久保書翰「越藩抔之内情甚可怪次第も有之、若一回動揺有之節ハ何れニ賊有るも被図不申候」。</ref>。
 
また、江戸城とともに従来の幕府の統治機構である幕藩体制が存続することは、強力な政府の下に富国強兵を図り、欧米列強に対抗しうる中央集権的な国家を形成しようとしていた新政府にとっては、旧弊を温存することにもなりうる諸刃の剣であった。結局のところ近代国家を建設するためには、各地を支配する藩([[大名]])の解体が不可避であり、いったん藩地と人民を天皇に返還する手続きを取ったのち([[版籍奉還]])、さらに最終的には幕藩体制自体を完全解体する[[廃藩置県]]というもう一つの[[革命]](こちらの革命は正真正銘無血で行われた)を必要としたのである。