「マルティン・アロンソ・ピンソン」の版間の差分

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コロンブスは、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]の[[イサベル1世 (カスティーリャ女王)|イサベル女王]]からの援助を得たが、それのみでは航海にはまるで充分ではなかったため、多くの援助を求めることになったが、特に船員については、それが未知の大陸への航海という全く先行き不透明なものであったため、集めることができずに困窮した状態にあった。当時パロスにおいて事業を営んでいたピンソン兄弟はコロンブスに全面的に協力し、船員など、航海に必要な多くの物を提供した。
 
[[1492年]][[8月3日]]に王領[[ポルトガル]]のパロス・デ・ラ・フロンテーラ|パロス]]港を出港し、10月に入る頃になると船団は迷走といっていい状態となったが、10月7日、ピンソンはコロンブスに進路の変更を提案して船団の進路を変え、結果的に[[10月12日|同月12日]]に[[バハマ]]沖にて、コロンブスにより[[サン・サルバドル島]]と名付けられることとなる島を発見した。
 
アメリカへの航海において、ピンソンはしばしばコロンブスの命令に背くことがあり、同年11月21日には[[キューバ]]にてピンタ号とともにコロンブスの船団と別れ、独自の発見を目的とした探索行を始めた。翌[[1493年]][[1月6日]]には再びコロンブスと合流し、ともにスペインへの帰途に着いた。この帰路においても、ピンソンは独走し、コロンブスより早くスペインに帰還し新大陸「発見」の第一人者になろうと試みたが、これらの不誠実な行為によって、帰国後にコロンブスから裁判で訴えられることとなった。