「山中幸盛」の版間の差分

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:幸盛の遺体は、曹洞宗観泉寺の住職、珊牛和尚がその遺体を引き取り、石金堂(清講堂)に埋葬されたと伝える。寺内には幸盛の位牌も安置されている。戒名は「幸盛院鹿山中的居士」。また、明治35年には、第14世金地祖英師が新たに墓石を建設した。戒名も追贈され「幸盛院殿鹿山中的大居士」となる 。
 
;[[大徳寺]][[玉林院]]内の墓([[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]紫野大徳寺町)
:寛保3年(1743年)5月22日、幸盛の子孫である大坂の商人、鴻池家当主をはじめ18名によって建立された。 鴻池家は先祖の菩提を弔うために、江戸時代中期の寛保年代に、玉院林の中に位牌堂を創建した。この位牌堂は「南明庵」と称され、幸盛の位牌もそこに安置されている。この南明庵の向かいの墓所に幸盛の墓がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十四にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也、子孫一宗、鴻池十八人相與に謀り、樹石を紫野玉林禅院に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 寛保三年歳舎癸亥五月廿二日 現住比丘大龍宗丈誌す」。
 
:宝暦14年(1764年)5月22日、幸盛の子孫である山中永辰と山中一信によって建立された。幸盛の墓は本堂脇の墓所中央に位置し、周囲に山中一族の墓碑がある。墓の裏面には、次のように記載される(原文は漢文)。「尼子忠臣山中幸盛、幼きより勇彊にして、軍鋒の魁たり。年三十(四)にて備中阿部に戦死す。実に惟れ天正六戌寅五月廿二日也。子(孫)山中永辰、同一信、相與に謀り、樹石を広宣し、流布山本願満足寺に奉り、先ず本に報じ、以て無窮に示す。 宝暦十四年歳舎甲申五月廿二日 当山丗七世日視誌す」。
 
;[[金戒光明寺]]金光院内の墓(京都府京都市[[左京区]]黒谷町 )
:金光院の奥の墓所中央、文殊堂へ通じる石段の登り口に、幸盛の五輪塔が建立されている。傍には、亀井茲矩と茲矩の妻(幸盛の養女)の2基の五輪塔がある。幸盛の五輪塔には、次の銘文が刻まれる。「潤林院殿太誉淨了大禅定門 、天正六年七月十七日」。