「順徳天皇」の版間の差分

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直接政務に与らない天皇は、王朝時代の[[有職故実]]研究に傾倒し、幕府に対抗して朝廷の威厳を示す目的もあって、『[[禁秘抄]]』を著した。これは天皇自身に関わる故実作法の希少な書物として、後世永く珍重された。また、父の影響で[[和歌]]や詩にも熱心で、[[藤原定家]]に師事して歌才を磨き、[[藤原俊成女]]や[[藤原為家]]とも親交があった。[[家集]]としては『順徳院御集』(紫禁和歌草)があり、歌論書には、当時の歌論を集大成した『[[八雲御抄]]』が知られる。『[[続後撰和歌集|続後撰集]]』以下の[[勅撰集]]には159首が入る。
 
父上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、[[承久]]3年([[1221年]])4月に子の懐成親王([[仲恭天皇]])に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に[[鎌倉幕府]]打倒に積極的で、5月に[[承久の乱]]を引き起こしたものの倒幕は失敗。乱後の[[7月21日 (旧暦)|7月21日]]、上皇は都を離れて[[佐渡島|佐渡]]へ[[流罪|配流]]となった。在島21年の後、[[仁治]]3年([[1242年]])[[9月12日 (旧暦)|9月12日]]に佐渡で[[崩御]]した。{{要出典範囲|date=2015年9月|病気は重くなかったが、還京の望みがない以上の存命は無益として、[[断食]]を行った後、最期は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられる}}。なお、在島中の詠歌として、[[貞永]]元年([[1232年]])の『順徳院御百首』が残されている。配流後は'''佐渡院'''と称されていたが、[[建長]]元年([[1249年]])7月20日'''順徳院'''と[[諡]]された。
 
藤原定家は幕府への配慮から、『[[新勅撰和歌集]]』に順徳天皇の御製を採らなかったが、『[[小倉百人一首]]』には以下の1首を採録した。