「足利尊氏」の版間の差分

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| 官位 = [[従五位上]]、[[鎮守府将軍]]、[[従四位下]]、[[兵衛府|左兵衛督]]、[[従三位]]、[[武蔵国|武蔵守]]、[[正三位]]、[[参議]]、[[征東将軍]]、[[従二位]]、[[大納言|権大納言]]、[[征夷大将軍]]、[[正二位]]、[[贈位|贈]][[従一位]]、[[贈官|贈]][[左大臣]]、[[贈官|贈]][[太政大臣]]
| 幕府 = [[室町幕府]]初代征夷大将軍(在任:[[1338年]] - [[1358年]])
| 主君 = {{要出典範囲|date=2015年9月8日|[[北条高時]]}}→[[後醍醐天皇]]
| 藩 =
| 氏族 = [[足利氏]]([[足利将軍家]])
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幕府を開いてのち弟・足利直義と二頭政治を布いたが、後に対立し[[観応の擾乱]]を引き起こす。直義の死により乱は終息したが、その後も南朝など反対勢力の打倒に奔走し、統治の安定に努めた。後醍醐天皇の崩御後はその菩提を弔うため[[天竜寺]]を建立している。[[新千載和歌集]]は尊氏の執奏により[[後光厳天皇]]が撰進を命じたものであり、以後の[[勅撰和歌集]]は、[[二十一代集]]の最後の[[新続古今和歌集]]まですべて将軍の執奏によることとなった。
 
{{要出典範囲|date=2015年9月8日|天皇に幾度か叛旗を翻したことにより、[[南北朝正閏論|南朝(吉野朝)を正当とする]]立場から「逆賊」と位置づけられていた時代(明治時代中期~昭和時代前期)もあった一方、[[皇国史観]]が廃され南北朝が平等に評価されるようになった[[戦後]](昭和時代中期~平成時代以降)は一転して肯定的に再評価されているように、歴史観の変遷によってその人物像が、甚だしく変化している}}
 
== 生涯 ==
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尊氏を逆賊とする評価は、[[江戸時代]]に[[徳川光圀]]が創始した[[水戸学]]に始まる。水戸学は[[朱子学]]名分論の影響を強く受けており、皇統の正統性を重視していた。そのため、正統な天皇(後醍醐天皇)を放逐した尊氏は逆賊として否定的に描かれることとなった。水戸学に発する尊氏観はその後も継承され、尊王思想が高まった[[幕末]]期には[[尊皇攘夷]]論者によって等持院の尊氏・義詮・義満3代の木像が梟首される事件も発生している([[足利三代木像梟首事件]])。
 
{{要出典範囲|date=2015年9月8日|[[明治]]時代になると、天皇を中心とする[[国民国家]]を建設するため、国家主義的な歴史観が構築されていったが、それは[[大政奉還]]・[[王政復古]]を正当化する歴史観であり、そのため[[大化の改新]]・[[建武の新政]]・[[明治維新]]が最も重要な改革に位置づけられた}}{{要出典範囲|date=2015年9月8日|明治中期までは近代的歴史学による実証的研究から後醍醐天皇・南朝の正統性はそれほど強調されていなかったが、明治40年代に入り、[[南北朝正閏論|南北朝正閏論争]]を経て、後醍醐天皇・南朝の正統性が強く主張されていき、それにともなって尊氏に対する否定的な評価が確定することとなった}}{{要出典範囲|date=2015年9月8日|戦前の[[国定教科書]]には「天皇に弓を引いた逆臣」と書かれており、[[斎藤内閣]]の[[中島久万吉]][[商工大臣]]が尊氏を礼賛した文章を書いたために辞任する事件も起こった}}
 
{{要出典範囲|date=2015年9月8日|戦後になると、国家主義的な歴史観([[皇国史観]])が厳しく批判され、実証主義的な歴史研究が進展したことにともない、尊氏の再評価が進められた}}{{要出典範囲|date=2015年9月8日|佐藤進一による主従制的支配者としての尊氏の評価はその一例であり、これは武家政権に関する研究が大きく進展する契機となった}}{{要出典範囲|date=2015年9月8日|現代の歴史研究において、尊氏を逆賊とする見解は存在せず、むしろ明治期に尊氏が逆賊とされるようになるまでの経過が歴史研究の一テーマになることもある}}。文化面においても、[[吉川英治]]が昭和30年代に書いた『[[私本太平記]]』は尊氏を主人公としているが{{要出典範囲|date=2015年9月8日|読者に広く受け入れられており、尊氏への評価が戦前のものから大きく変化していることがわかる}}
 
歴史小説家の[[海音寺潮五郎]]や[[井沢元彦]]は、後醍醐天皇にとどめを刺さなかった点や内部抗争の処理に失敗した点を突き、「人柄が良くカリスマは高いが、組織の運営能力の点では[[源頼朝]]や[[徳川家康]]に劣っている」「戦争には強いが政治的センスはまるでない」と厳しい評価を下している。