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'''新見 錦'''(にいみ にしき、[[天保]]7年([[1836年]]) - [[文久]]3年[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]([[1863年]]))[[10月27日]])?)は、[[幕末]]の[[水戸藩]]浪士、[[壬生浪士]](後の[[新選組]])幹部(副長という説もある)。号は'''錦山'''(きんざん)とされるが、[[子母澤寛]]が記すのみであり、確証はない。姓の読みは「にいのみ」、「しんみ」など諸説ある。
 
== 出自 ==
 
新見錦は変名であり、水戸浪士で、[[芹沢鴨]]の前名とされる下村嗣次と玉造文武館党の同志<ref>「常野集一」 茨城県立歴史館編『茨城県史料 幕末編 III』、茨城県 1993年 p50~51</ref>だった、新家粂太郎が本名であるという説が存在する。
 
新家は[[神道無念流剣術|神道無念流]]剣客[[金子健四郎]]の門人であり、文久3(1863)3[[5(1863年)5]]、二条[[木屋町]]に旅宿する<ref>『会津藩庁記録 文久三年 第二』、日本史籍協会 p472~477</ref>水戸藩士[[吉成勇太郎]]と、[[中山忠能]]の日記中に芹沢鴨と共に名前が現れる<ref>中山忠能 『中山忠能日記 原題・正心誠意 第三』、日本史籍協会 1916年7月 p644</ref>[[今泉与一太郎]]と連署した借用書が残っており、在京が確認できる<ref name="kyoto">『京都新聞』、2015年2月19日 「壬生浪士幹部?の借用証発見 同一人物説の新家粂太郎連署」</ref>。
 
同年6月16日、攘夷監察使[[正親町公董]]の陪従<ref>[[加藤常吉]] 「加藤任重漫録」 『維新日乗纂輯 第二』、 日本史籍協会 1925年12月 p383</ref>として長州に下り、暴飲から罪を得て、9月15日に死亡し、当時[[三田尻]]の車塚(現[[山口県]][[防府市]]車塚1)にあった[[蘆樵寺]]に墓石(現存せず)が建立された<ref name="katou">[[加藤桜老]] 「復京日記」『榊陰年譜 附加藤櫻老小傳』 [[笠間稲荷神社]]、1979年10月 p574</ref>。没年(数え年)は28歳<ref name="katou" />であり、新見の年齢と一致する。
同年6月16日、攘夷監察使[[正親町公董]]の陪従<ref>[[加藤常吉]] 「加藤任重漫録」 『維新日乗纂輯 第二』、 日本史籍協会 1925年12月 p383</ref>として長州に下り、暴飲から罪を得て、9月15日に死亡し、当時[[三田尻]]の車塚(現[[山口県]][[防府市]]車塚1)にあった[[蘆樵寺]]に墓石(現存せず)が建立された<ref name="katou">[[加藤桜老]] 「復京日記」『榊陰年譜 附加藤櫻老小傳』 [[笠間稲荷神社]]、1979年10月 p574</ref>。没年(数え年)は28歳<ref name="katou" />であり、新見の年齢と一致する。「新見久米次郎」との表記<ref>加藤「復京日記」 『榊陰年譜』 p609</ref>もされている。また、吉成勇太郎は粂太郎を壬生浪士が手に余すので引き取ったと記している<ref name="kyoto"></ref><ref>吉成勇太郎 『〔尊攘之儀ニ付建白書〕』 [[岡山大学]]附属図書館、池田家文庫 文久3年8月</ref>。
 
== 生涯 ==
名簿<ref>[[川澄次是]]編 [[児玉幸多]]校訂 『公余録 下 阿部家史料集 2』、1976年3月 [[吉川弘文館]] p471</ref>から逆算すれば、天保7(1836)7(1836年)の生まれである。 [[岡田助右衛門]]に剣を学び、神道無念流免許皆伝を授かる。腕前は「達人之趣ニ御座候」とする風説が残る<ref>[[小寺玉晁]]編『東西紀聞 第一』、日本史籍協会 1917年1月 p180</ref>。
 
文久3(18633(18632)2月、[[清河八郎]]の建策により上洛する[[江戸幕府]]14代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]の警護のために組織された[[浪士組]]に加盟し、三番組小頭になる。後に新選組を結成する芹沢や[[江戸]]・[[試衛館]]([[天然理心流]])の[[近藤勇]]も加盟していた。新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられたことから名が知られた存在だったと考えられる。新見の組下には[[井上源三郎]]、[[沖田林太郎]]など5人の多摩系の天然理心流門人が配属された。
名簿<ref>[[川澄次是]]編 [[児玉幸多]]校訂 『公余録 下 阿部家史料集 2』、1976年3月 [[吉川弘文館]] p471</ref>から逆算すれば、天保7(1836)年の生まれである。 [[岡田助右衛門]]に剣を学び、神道無念流免許皆伝を授かる。腕前は「達人之趣ニ御座候」とする風説が残る<ref>[[小寺玉晁]]編『東西紀聞 第一』、日本史籍協会 1917年1月 p180</ref>。
 
文久3(1863年)年2月、[[清河八郎]]の建策により上洛する[[江戸幕府]]14代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家茂]]の警護のために組織された[[浪士組]]に加盟し、三番組小頭になる。後に新選組を結成する芹沢や[[江戸]]・[[試衛館]]([[天然理心流]])の[[近藤勇]]も加盟していた。新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられたことから名が知られた存在だったと考えられる。新見の組下には[[井上源三郎]]、[[沖田林太郎]]など5人の多摩系の天然理心流門人が配属された。
 
8日に江戸を出立して、23日に入京。[[粕谷新五郎]](水戸出身)とともに南部亀次郎邸に宿泊。芹沢は近藤とともに[[八木源之丞]]邸に宿泊しており、八木家の子息だった[[八木為三郎]]の回顧によれば、新見と粕谷は芹沢のいる八木家に入り浸っていたという<ref name="yagi">子母澤寛「壬生屋敷」『新選組遺聞』中公文庫、1977年 p99</ref>。
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27日に清河が江戸帰還を宣言すると、芹沢、近藤とともに京都残留を表明して離脱。離脱組は芹沢、新見ら5人の水戸系浪士と近藤、[[土方歳三]]、[[山南敬助]]、[[沖田総司]]ら8人の試衛館門人で、これに[[殿内義雄]]、[[根岸友山]]、粕谷新五郎らが加わるが、すぐに内部抗争が起きて殿内は殺害され、根岸、粕谷は脱退した。必然的には浪士たちは芹沢、新見ら水戸派と近藤、土方ら試衛館派に大別された。
 
浪士たちは[[京都守護職]]の[[会津藩]]主[[松平容保]]に嘆願書を提出して、会津藩御預かりとなり'''壬生浪士'''を名乗る。新見は結成当初の編成で芹沢、近藤と並んで浪士のリーダーになったと考えられ、4月に[[大阪市|大坂]]の商人から100両借りた(押し借りした)ときの添書きでは新見、芹沢、近藤の名前が並んでいる。これ以降在隊の記録は確認されていない。文久3年5月25日に容保に差し出された名簿には、新見の名前は記されておらず、同一人物説が唱えられる田中伊織の名前も見えない<ref>「近藤勇書状写帳」『佐藤彦五郎日記2』「日野宿本陣」文書調査団、2005年3月 p185~186</ref>。同月入隊の[[島田魁]]「英名録」にも記載がない。
 
新見は芹沢と行動を共にする腹心といわれるが、壬生浪士幹部としての行動の実態はよく分らない。芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木為三郎も新見については「まるきり覚えがありません」<ref name="yagi"></ref>、「いつの間にかいなくなっていた」<ref>子母澤「壬生屋敷」 p148</ref>と述べている。新選組幹部の[[永倉新八]]が記した『[[浪士文久報国記事]]』によると新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。[[子母澤寛]]の『新選組始末記』によっても新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請り(ねだり)を繰り返していたという。