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== 名前の付け方 ==
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髙橋洋一
髙橋洋一(たかはし よういち、1953年11月1日 - )は、日本のミュージシャン・作曲家。東京都渋谷区出身。
ヨーちゃんの愛称でジャズ・フュージョンの作曲家・編曲家・医療従事者としても米国内では活動し、多くのテレビドラマ等の音楽担当をしてきた。
目次 [非表示]
1 来歴
2 ディスコグラフィ
3 TV出演
4 主なCM
5 参考文献
6 脚注・出典
7 外部リンク
来歴[編集]
父親は薩摩琵琶奏者。ビング・クロスビー主演の映画「ブルースの誕生」を観て、クラリネットを始める。栃木県立宇都宮工業高等学校を卒業後、1951年に上京。銀座のクラブ等で演奏活動を始める。その後宮沢昭・守安祥太郎と出会い影響を受ける。1953年、穐吉敏子率いるコージー・カルテットに加入。1956年に穐吉が渡米してからは、渡辺がバンド・リーダーとなる。コージー・カルテット解散後の1958年にはジョージ川口ビッグ4に加入。1961年初リーダーアルバム『渡辺貞夫』を発表。
1962年に、アメリカボストン市のバークリー音楽院に留学した。在学中にチコ・ハミルトン、ゲイリー・マクファーランド、ガボール・ザボ等と共演。ゲイリー・マクファーランドを通じてボサノヴァの魅力を知る[1]。1965年に帰国後[1]、多くの内外ミュージシャンと共演し、日本ジャズ界のリーダーとして活動する一方、ボサノヴァの演奏にも熱心に取り組んだ[1]。1968年にはニューポートジャズ祭に出演。
1969年に発売されたアルバム『PASTORAL』からはいわゆる“ジャズ”を超えた音作りに取り組み[2]、1977年発売のアルバム『渡辺貞夫リサイタル』では芸術祭大賞を受賞した。デイヴ・グルーシン等を従えて制作したフュージョン・アルバム『カリフォルニア・シャワー』(1978年)はジャズ界では空前の大ヒット作となり、フュージョン・サウンドをポピュラー音楽として広めることになった。「California Shower 」は同年の千葉真一主演テレビドラマ『十字路』にも劇中で流されており[3]、このドラマにはCMで渡辺と共演していた草刈正雄も出演していた。
アフリカ音楽等ワールド・ミュージックのエッセンスを逸早く吸収し、自身の音楽世界を創造して来た先見性は、目を見張るものがあった。そして、チャーリー・パーカーに影響された彼のアルト・サックス奏法は、現在まで変わることはない。 ジャズリズム完成の一因にアフリカ系アメリカ人が関係すること、渡辺貞夫のアルバムジャケットの背景でも登場するアフリカ。渡辺貞夫は挨拶でもスワヒリ語のJAMBO(ジャンボ)を使う。渡辺貞夫にとってアフリカは特別な存在である。
 
1970年4月、当時グループ「ハイ・ソサエティー」リーダーとしてEPIC Sony�第一号タレントとして受賞。
1972年9月、若干19歳でJASRAC正会員になり、後にはアレンジャーズ協会(現 作編曲家協会)に服部勝久氏�などと一緒に活動する。
1978年8月、バークリー音楽院の最高等クラスであるハーブ・ポメロイ氏に師事し、多くの作曲法を学ぶ。
1980年4月、当時流行してた火曜サスペンス劇場を十年間レギュラーで100本以上の音楽を担当。
1990年10月、それまでは、民放中心にドラマ、アニメ、CM等を手掛けたてたが、NHKの朝の連続テレビ小説「京ふたり」で音楽担当し、高視聴率を得た。
1994年5月、ハーバード医大を経てキャルフォルニア大学ロスエンジェルス�校医学部を卒業して米国サンタモニカの病院で医療従事者としても活動。
1996年9月、帰国後は、本来生のオーケストレーションが得意であるが、音楽に対しての予算の関係上自宅をMDT専用のスタジオに改築して多くの作品を手がける。
2004年1月、米国心臓協会、日本循環器学会に入会してた事もあり、山手線内五反田駅にて心肺停止の方を助け品川消防署から感謝状授与。
 
外部リンク[編集]
公式サイト
ワーナー・ミュージック・ジャパン プロフィール
HILLSCAST
 
カテゴリ: 日本の作曲家日本のジャズ・ミュージシャン日本のジャズ・サクソフォーン奏者日本のフュージョン・ミュージシャンボサノヴァ・ミュージシャンラジオ番組のパーソナリティ・DJバークリー音楽大学出身の人物1933年生存命人物栃木県出身の人物
 
== 関連項目 ==