「庄内藩」の版間の差分

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[[寛永]]9年([[1632年]])[[江戸幕府]]預人・[[加藤忠広]](旧・[[肥後国]][[熊本藩]]主)に配所料として領内の丸岡1万石を分与した。代わりに[[酒井直次|直次]](忠勝の弟)の遺領・[[#左沢藩|左沢藩]]1万2千石が与えられ表高14万石となる。以後、最上氏旧領内4藩の中心的存在となった。
 
一方では検地によって見込まれた5万3000石は年貢の対象とされ、農民にとっては実質的な年貢増となった。特に遊佐郡の農民らがそれに反発して土地から離散し、のみならず寛永11年([[1634年]])には遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門が幕府に上訴するにおよび庄内藩は動揺した。庄内藩の検地と増税で遊佐郷は五千七百石程から壱万石に増加したこと等十三ヶ条が鶴岡市史にある。それで遊佐郷の百姓四四軒四百人程が由利仙北に逃亡した。肝煎太郎左衛門はその罪を受けて牢に入れられた。逃散者が連れ戻された時幕府の巡見使が来ると情報が入った。それで高橋太郎左衛門は牢から出されたのです。藤沢周平が書いているように牢から出されても安心できなかったようです。江戸情報には明るい酒田衆の情報で弟長四郎と共に江戸へ出た。幕府中央に着実に届くように江戸目付に訴えている。荘内の農村居住者が時の藩の過酷さを幕府は許さないだろうと見抜いていたのだろう。この公益思想を当時の荘内農村では成長していたことは注目にあたいする。詳しいことは鶴岡市史上巻。また、藩主忠勝の弟[[酒井忠重]]が自らの子を藩主とするため、藩主忠勝の子[[酒井忠当]]を廃嫡させようと策謀。正保3年([[1645年]])には忠勝を抱きこみ、忠当の後ろ盾となっていた筆頭家老高力喜兵衛を追放、類する者も処罰させた(通称、酒井長門守一件)だが、忠当の廃嫡を目前にして初代藩主酒井忠勝が病死。遺言通り、忠当は庄内藩の2代藩主として家督を継いだ。忠当は酒井忠重へ2万両を送り義絶。弟である三男忠恒に松山2万石を、七男忠解に大山1万石を分知し、家内の混乱を収めた。
 
庄内藩では、藩外に出る口を5口とし、それぞれに関所を置いた。すなわち、吹浦口、念珠ヶ関口、小国口(関川口)、清川口、大網口である。