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'''蕭 銑'''(しょう せん)は、[[隋]]末[[唐]]初に割拠した群雄の一人。[[後梁 (南朝)|後梁(西梁)]]の[[蕭サツ|宣帝(蕭詧)]]の曾孫にあたり、自立して[[梁 (南朝)|梁]](後梁)を復活させてその皇帝となっを称したが、隋によって滅ぼされた。
 
== 生涯 ==
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鳳鳴2年([[618年]])、梁の[[皇帝]]を称し、[[荊州区|江陵]]に都を置き、百官を置いて梁の旧制にならった。董景珍を晋王に、雷世猛を秦王に、鄭文秀を楚王に、許玄徹を燕王に、万瓚を魯王に、張繡を斉王に、[[楊道生]]を宋王に封じた。隋の[[張鎮州]]と[[王仁寿]]の攻撃を撃退した。隋が滅ぶと[[嶺南 (中国)|嶺南]]の[[甯長真]]らを降し、[[林士弘]]を豫章に破って、西は[[三峡]]、南は[[交州|交趾]]、北は[[漢水]]に至る広大な地域を帰服させ、兵40万を号した。[[荊州区|江陵]]には園廟を復した。[[岑文本]]を召して中書侍郎とし、機密を司らせた。楊道生に峡州を攻めさせたが、唐の峡州刺史の[[許紹]]に敗れた。
鳳鳴4年([[620年]])、唐の趙郡王[[李孝恭]]の攻撃を受けて通州・開州を奪われ、東平王[[闍提]]を斬られた。蕭銑の梁の諸将は兵権を専断し、蕭銑は抑制することができなかった。董景珍の弟が将軍となり乱を謀ったが、事前に漏れて処刑された。蕭銑は董景珍を長沙から江陵に召還しようとしたが、恐れた董景珍は李孝恭に降った。蕭銑は張繡を派遣して董景珍を攻めさせ、董景珍は潰走して部下に殺された。蕭銑は張繡を尚書令としたが、張繡は功をたのんで驕慢となったため、蕭銑は張繡も処刑した。蕭銑は外面は寛容だったが、その内心は猜疑心深く、成功者を妬んだので、大臣や将軍たちの多くは叛き去り、蕭銑の梁は弱体化した。
鳳鳴5年([[621年]])、唐の李孝恭と[[李靖]]が[[重慶市|巴]][[蜀]]の兵を率いて[[長江]]を下り、廬江王[[李エン (廬江王)|李瑗]]が[[襄陽道]]を、黔州刺史の[[田世康]]が辰州道を出て、蕭銑の梁を攻めた。また[[周法明]]が唐に降って黄州総管となり、夏口道を抜け、安州を落とした。雷長潁が魯山で降伏した。蕭銑は文士弘を派遣して李孝恭を阻ませたが、[[清江]]口に敗れ、戦艦多数を鹵獲された。宜昌・當陽・枝江・松滋を奪われ、江州で[[蓋彦挙]]が唐に降った。李孝恭と李靖が江陵を囲み、蕭銑は各地に救援を求めたが援軍は到着せず、ついに唐の軍門に下った。降伏したり、ここに銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪ない。殺掠滅亡ないでいただきたい」と李孝恭に言った。
 
降伏した蕭銑は「死すべき者は銑のみで、百姓に罪はない。殺掠しないでいただきたい」と李孝恭に言った。[[長安]]に護送された蕭銑を高祖[[李淵]]は責めたが、蕭銑は「隋がその鹿を失い、英雄が競いあった。銑には天命がなかったために、陛下の虜となった。[[田横]]が南面して、[[前漢|漢]]に仕えるようなことがあろうか」と答えた。高祖は蕭銑が屈服しないのを怒って長安の市で斬らせた。
 
== 伝記資料 ==