「仁助法親王」の版間の差分

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後嵯峨天皇の治世、続く同上皇の院政下において仁助はその相談役的存在であり、[[近衛兼経]]・[[西園寺実氏]]・[[土御門定通]]・[[久我通光]]ら朝廷の重鎮とともにたびたび重要政策や人事に関する諮問を受けている。また、[[鎌倉幕府]]も仁助を後嵯峨天皇(院)とのパイプ役として重視して京都の朝廷に派遣された使者が仁助とも会見を持っている。僧侶である仁助による朝廷・院政への公然・非公然の関与は異例ではあったものの、後見人のいないまま即位した後嵯峨天皇を支える存在として公家社会でも広く認識されていた。公家の1人である[[葉室定嗣]]は仁助の活躍で朝廷の中興が進み、朝廷から佞臣がいなくなったとして、仁助の政務関与を肯定している(『葉黄記』宝治2年11月21日条)。
 
弘長2年(1262年)、園城寺の別院であった[[平等院]]にて49歳で没した。
 
== 参考文献 ==
[[Category:鎌倉時代の男性皇族]]
[[Category:鎌倉時代の僧]]
[[Category:真言天台宗の僧]]
[[Category:1214年生]]
[[Category:1262年没]]