「仁助法親王」の版間の差分

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'''仁助法親王'''(にんじょほうしんのう、[[建保]]2年([[1214年]])-[[弘長]]2年[[8月11日 (旧暦)|8月11日]]([[1262年]][[9月25日]]))は、[[鎌倉時代]]中期の皇族・[[天台宗]]寺門派の僧侶。[[土御門天皇]]の皇子。母は[[源通子]]。[[後嵯峨天皇]]は同母弟にあたる。
 
土御門天皇と源通子の間の子は[[承久の乱]]後に父である土御門天皇が[[土佐国]]に赴いたこともあって皇位継承が可能性が失われており、最年長の皇子であった仁助を始めとする男子は[[園城寺]]に入って出家している。仁助は[[円浄]]を師として、[[仁治]]2年([[1241年]])に[[灌頂]]の儀式を行って[[円満院]][[門跡]]となっている。ところが、翌仁治3年([[1242年]])に[[四条天皇]]が崩御し、諸事情で出家が遅れていた仁助の実弟・邦仁王が急遽皇位に就くと、新帝・後嵯峨天皇の兄と言うことで同年[[4月15日 (旧暦)|4月15日]]に[[親王宣下]]を受けて[[法親王]]となり(『[[百錬抄]]』)、続く[[7月17日 (旧暦)|7月17日]]には園城寺の[[長吏]]に任じられた(『三井続灯記』長吏次第)。更に[[寛元]]元年([[1243年]])に土御門天皇の中宮であった[[大炊御門麗子]](陰明門院)が没すると彼女の邸宅である四条坊城殿や所領は仁助に与えられた。仁助は四条坊城殿にて父母の[[法華八講]]を行っている(それ以前は土御門天皇の御陵は京都郊外の金ヶ原にあったため、京都市中で大規模な法要を行う機会を持てなかった)。[[建長]]元年([[1249年]])には[[四天王寺]]の別当に任ぜられる。
 
後嵯峨天皇の治世、続く同上皇の院政下において仁助はその相談役的存在であり、[[近衛兼経]]・[[西園寺実氏]]・[[土御門定通]]・[[久我通光]]ら朝廷の重鎮とともにたびたび重要政策や人事に関する諮問を受けている。また、[[鎌倉幕府]]も仁助を後嵯峨天皇(院)とのパイプ役として重視して京都の朝廷に派遣された使者が仁助とも会見を持っている。僧侶である仁助による朝廷・院政への公然・非公然の関与は異例ではあったものの、後見人のいないまま即位した後嵯峨天皇を支える存在として公家社会でも広く認識されていた。公家の1人である[[葉室定嗣]]は仁助の活躍で朝廷の中興が進み、朝廷から佞臣がいなくなったとして、仁助の政務関与を肯定している(『葉黄記』宝治2年11月21日条)。
 
弘長2年(1262年)、園城寺の別院であった[[平等院]]にて49歳で没した。
 
== 参考文献 ==